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種には命がある

2021年5月23日 ペンテコステ礼拝宣教

「種には命がある」マタイによる福音書13章31-33節

 13章は主イエスがもたらされた福音(神の国)を譬えで話されたところである。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで毒麦の譬えの説明、次には宝を隠している畑、真珠、海、海におろされた網などが語られている。これらの物語の核心をつかまえないと、主イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見逃してしまうだろう。

 まず種の譬えだが、種には命があるということだ。種、それは御言葉のこと。御言葉には命があるということである。私たちがそれをしっかり受け止めていったならば、ヤコブの手紙121節に「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます」とあるように、私たちの生活を変えてしまう力が起きてくる。いや、昔も今も、私たちの歴史を通して、私たちの生活のただ中で起きているのだ。御言葉をただ聞き流したり、読み飛ばしたりでは、そこからは何も起きてこないだろう。それをどのように受け止めていくかが私たちの責任になってくる。

 マタイ福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコ福音書には、これは「受ける」「受け入れる」となっている。御言葉を受け入れることが悟るということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識などによって御言葉を軽く料理してしまいがちだが、逆である。御言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということである。これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から拍手喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないのが受け入れるということでもある。そのように受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。種を受け入れた時に「ああ命があるんだ」ということを実感することができるのである。

同じように聖書の御言葉がどんなに素晴らしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからない。聖書の知識は増えても、自分と聖書の関わりを見出すことはできない。受け入れた時に、はじめて種の持っている命に触れることができるのである。

 からし種は小さなものの象徴。ちなみに黒からし種は1ミリほどのごく小さい種だが、成長すると3メートルほどに大きくなるそうだ。それは今はごく小さいが、大きく育つ命がすでに種の中に秘められていることを意味する。従って現在の小ささに失望することはない。むしろ大きく育った未来を想像して、現在を見ていくことを教えられ、励まされる。それは私たちの人生において、小さな努力に過ぎないと思っていても、それを続けているうちに大きな成果を生み出すことがあることを教えてくれる。本当に励みになる。

 次のパン種の話は、微量のパン種(イースト)とそれが粉全体を大きくふくらませる結果との大小の対比から、最初は人目につかないほどの存在であっても、それはやがて全体を変え、大きなものとなるという話。それは主イエスの神の国も同様であることの譬えである。

 

 種には命があるという譬えから、命は見えないが、それを受け入れた時から、そのことがいずれ明らかになってくる。それは隠されているものが明らかになっていくことであり、小さなものが大きく成長し、やがて実を結ぶ、という結果を生み出すのだということを私たちに示している。そこに希望を見ることができるのだ。