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祝福の源 -断念と約束-

2021年5月16日 主日礼拝宣教

「祝福の源 -断念と約束-」創世記12章1~4節

 説教題は「祝福の源」としたが、では神の祝福とはなんだろうか。それは命の拡充、高揚、平安、福祉と関係する。祝福は、人々を支配、搾取、抑圧、差別することによっては決して得られない。それは、相手の存在をありのままで肯定することと関係する。それは、共生であり、連帯するところから得られるものだ。そしてその祝福の源には、苦しみ、悲しむ人々、そして貧しい人々と共に神がおられる。

 さて、創世記1213節には、アブラハムの召命と選びが記されている。アブラハムという人は、イスラエルの先祖、神によって選ばれた信仰の父と言われた人だ。アブラハムは神の語りかける言葉を信じて、カルデアのウル、そしてハランを出立した。信仰は、パウロがローマ人への手紙1017節で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことよって始まるのです」と書いているように、神の言葉を「聞いて信じる」ところにある。 

この創世記1213節は、アブラハムから始まり、イエス・キリストを頂点として終末へと向かう救済史の始まりを示す箇所である。しかし、不思議なことに、ここには「救い」という言葉は出てこない。「罪の赦し」も「信仰」という言葉も出てこない。その代り、「祝福」と「呪い」という言葉が出てくる。特に「祝福」という言葉は、この短い箇所に5回も出てくる。ということは、神の救済史の内容は、神の、人々(及び全被造物)に対する祝福を目指す歴史だということだろう。

1節で、アブラハムの旅立ちに際して、神はまず二つの断念をアブラハムに促している。故郷を断念すること。父の家を断念すること。これは人生における平穏な生活、安全と保証の生活を断念して、寄留者として、異邦人として住むことを意味した。ヘブライ人でありつつ、人として、神の民として生きることだ。神はこの断念の人を通して全世界の人々を祝福されることを願われるのである。

2節では、神はアブラハムに二つの断念を促すことに対応して、三つの約束をする。「大いなる国民とする」「祝福する」「名を大きくする」。そして、アブラハムに対する三つの約束の後に、神の「祝福の源となるように」と言われている。「祝福の源になるように」ということの基盤には、インマヌエルの信仰があることは確かなことだと思う。

さらに3節では、神が呪いについて「あなたを呪う者(軽蔑する者)を私は呪う」と言っている。それはこの世界に対してアブラハムの選びを通して、神が推進しようとしておられる祝福を排除し、否定しようとする者に対する裁きを述べたもので、神の、人への祝福に対する強い 決意表明だと思われる。

 ところで、旧約聖書はそれ自体では完結した書物ではない。未来へと開かれた書物である。すなわち、私たちにとっては、新約聖書へと開かれた書物である。このアブラハムの祝福と断念の線がずっと伸びたその延長線上に、私たちの主イエス・キリストが立っておられる。イエス・キリストも、故郷、父の家を断念した人だった(フィリピ268参照)。それ故に、ユダヤ人でありつつ、人として、神の民として生を全うされた。だから、創世記122節の「祝福の源となるように」という事柄は、約2000年後にイエス・キリストにあってその成就を見た、と言えると思う。

 なぜなら、イエス・キリストは、十字架の死に至るまで、身を切り裂くまでに、祝福の神が人と共にいて下さることを証しされたからである。イエス・キリストは神が共にいて下さる、という出来事そのものだった。「インマヌエル」そのものだ。アブラハムの末から生まれたイエス・キリストがアブラハムの断念を貫徹され、アブラハムの「祝福の源になるように」を成就されたのである。それも、あくまでも僕として、僕の姿に徹して生涯を貫かれたのである。

 私たち教会はどのようにして神の祝福に仕えるのか。祝福の源になり得るのか。模範はイエス・キリストにある。イエス・キリストは断念により、王としてではなく十字架の死に至るまで、命を賭して、僕の姿に徹し切ることにより、すべての人々の祝福の源になられた。

 断念することによって。祝福の約束をされる主なる神、その祝福の源となられたイエス・キリスト。そのイエス・キリストによって祝福の恵みに与ることが許されている私たち教会。私たちに与えられた使命は、その祝福の恵みを分かち合うこと、それは共に生きていくことによってなされていくだろう。