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愛にとどまる礼拝

2021年5月9日 主日礼拝宣教

 「愛にとどまる礼拝」使徒言行録1章6~14節

 使徒言行録の冒頭において、主イエスが弟子たちに「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(使徒18)と約束して昇天した後、最初に弟子たちがしたことは二階部屋に集まることだった。そこで彼らが行ったのは、敬虔なる平凡事ともいうべき行為、すなわち「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」のである(使徒114)

 聖霊降臨の力と全世界に対する証人となるという約束が弟子たちを奮起させたのだとすれば、その直後に予期することは、使徒たちがより活動的な形で実際の反応を示すということではないだろうか。主イエスの革命的な活動の証言は、どのような方法で開始するのがふさわしいのだろうか。教会に求められる行動主義とは、たんなる息もつかせぬ忙しさとか激しい人間的な努力といったもの以上のことではないだろうか。主イエスの弟子たちは「気を落とさずに絶えず祈らなければならない」(ルカ181)と教えられた人々であった。祈りは使徒言行録に出てくる教会の主要な活動であり、それは他のすべての活動に優先するものであって、イエス・キリストによってこの世界に生じた出来事を言葉と行動によって証言しようとする教会の力の源泉となるものであった。祈りは、教会のひとつの「活動」というよりも、むしろ教会の生命そのものに関わるものである。

 私たちが神を礼拝するのは、功利的な目的や実用主義的な目的のためではない。そうではなくて、神に愛されているがゆえに私たちは神を礼拝するのだ。神は神であるがゆえに賛美されるべき存在であって、利用されるべき存在ではない。たしかに言葉に表現できないような神の恵みを礼拝の中で往々にして経験することがあるとはいえ、私たちはなにかを獲得するために神を礼拝するわけではない。礼拝は、愛のもとにとどまるという出来事である。ある神学者がキリスト教礼拝のこうした本質について「高貴な時間の浪費」と適切に表現した。かけがえのない祝福に満ちた時間とでもいえるだろう。

 私たちの祈りは、私たちの信仰に先行する。すなわち主日の礼拝行為は、私たちの神学的反省や月曜日以降の私たちの生き方に先立つものなのである。礼拝とは、ギリシア語の原意によれば「人々の仕事」を意味する。教会における私たちの礼拝は、この世界における私たちの仕事に先行するプレリュードであり、その源泉となる。私たちの生活は礼拝に始まって、礼拝に戻ってくる。言い換えるならば、私たちの生活は祈りに始まって、祈りに終わる。その間、いろいろなことがあるだろう。必ずしもよいことばかりではない。悲しいこと悔しいこと苦しいこといやなことなどもあるだろう。しかし、祈りに始まって、祈りに終わる信仰生活においては、すべてのことはこの祈りにはさまれている。祈りによってサンドイッチにされているがゆえに、苦しみは苦しみでなく、悲しみは悲しみで終わらないのである。祈りによって慰められ、励まされ、力を受けるのである。そして、立ち上がり、主のために用いられていくのである。