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主イエスに明け渡す

2021年4月25日 主日礼拝宣教

「主イエスに明け渡す」  マルコによる福音書14章3~9節

 「先生」と呼ばれる仕事に就いて、多くのことを学んだ。その中の一つに、「ラポールの構築」というものがある。ラポールいうのはフランス語で、その意味は温かい人間関係ということで、温かい人間関係を構築することの大切さを学んだ。温かい人間関係とは、人と人、お互いが「自由に振る舞える安心感」をもって、「相手に対する尊敬と信頼の念」をいだき、「感情や意志の自在な交流・理解が可能であるような状態」を指す。一言で言えば「相互の信頼」。そこに「心のかけ橋」がかかるである。

 私は教員生活の中でいかにこの「ラポール」が教育活動に必要不可欠であるかということを教えられた。このラポールが成立していなければ、何を伝えようとしても伝わらないし、お互いがどのように努力してもなにもできないのだ。表面的なお付き合いか、互いが知らないうちに傷つけあうことにもなる。

 人間なんて不完全な存在だから、あらを探せばいくらでも出てくる。叩けばほこりも出てくる。このラポール、相互の信頼が成立していないと、互いにあら探しや引っ張り合いになることだってありえる。逆にこのラポールさえ成立していれば、大抵のことは大丈夫、失敗だってお互いに受け入れられる、ということになる。赦し合えるようになる。

 ラポールは、相手の感情を無条件かつ積極的に受容していくことから始まる。愛想の良い態度や分かった振りよりも、まず自分の心を開き、内的世界を開示し、その開かれた心に相手の葛藤を引き受ける態度を示していくことが肝要である。

さて、長々とラポールについて述べたが、今日の聖書箇所でラポールが構築できたのは誰と誰の間だろうか。ここでは、「重い皮膚病の人シモンの家」で、「事件」と言ってもよい出来事が起こる。一人の女が高価な香油を大量におしげもなく主イエスの頭に注いだ。「頭に香油を注ぐ」行為とは、メシア(油注がれた者)としてユダヤの王が就任する戴冠式の際に行われる儀式である。彼女は、象徴的な意味を込めて、それをまねてやったのかもしれない。しかし、決して遊び半分でというのではない。「純粋で非常に高価な」と表現されているのに重なるように、彼女自身「まじりけのない姿勢と心」でそれをやったのではないかと思われる。彼女の主イエスへの精一杯の思いがあらわされた行為といえるだろう。

 そして、それは「壺をこわし」て行われた。わざわざ壊すこともないのにだ。だから、それは異常ともいえる極端な行動であり、計算や計画を寄せ付けない行為と受け取れる。その瞬間にあるものすべてを献げる。それは、彼女の「持ち物」を超えて、「彼女自身」を主イエスに献げる行為ともいえるような迫力を持っている。しかも、「こわす」という表現についてまわる「犠牲」や「痛み」を伴っている。

 しかし、おそらく当人にとっては、その瞬間は、そうしたことなどをいろいろ考えたあげく、決断に踏み切ったというのではなく、思わず行ったのに違いない。8節の「この人はできる限りのことをした」とあるが、岩波訳では「この人は思いつめていたことをしたのだ」とも訳されている。あれこれ考え始め、論理的整合性がどうのこうのと言いはじめたら、からだは動かなくなる。彼女はそうせずにはおれないほどの内から湧き溢れる喜びを感じていたのだと思う。そこに、弟子たちと彼女との間にあるギャップがあらわになってきたのだ。

 人々は彼女の行為に非難をあびせる。その非難は、お金の無駄使いの面にとどまらず、彼女の「貧しい人たち」を顧みる配慮の足りなさにまで向けられていった。人々は、当然の反応、正当な批判を彼女に向けたのだ。確かに人々の彼女への非難には正当性がある。だからこそ、主イエスも「なぜ困らせるのか」と言われたのだろう。「正論」であればこそ、返答に窮するのである。しかし、主イエスは、計算された正論よりも、常識を打ち壊すほどの大胆な「献げる行為」の方を喜ぼうとされた。「この人はできる限りのことをした」(8節)。それを主イエスは「私によいことをしてくれた」(6節)と評価し、受け入れられる。「貧しい人々に施すか、主イエスに献げるかの二者択一」の問題ではないのだ。「貧しい人たち」を顧みる奉仕は、主イエスが7節で「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるから、したいときに良いことをしてやれる」(7節)と言われたように、弟子たちの務めとして適切になされるべきだろう。

 彼女の行為は、「無駄遣い」とも取れるほどに、無謀であったかもしれない。しかし、この一瞬の「事件」が主イエスを「メシア」と証し、「埋葬の準備をしてくれた」(8節)という仕方で「十字架の死」に仕えることになるからこそ、主イエスは喜んでそれを受け入れられたのだ。

 

 彼女は主イエスの愛に対して、何としてもそれに応えたかったのだ。神の愛を知った喜びがそうさせたのだ。そして、そのことが「十字架の死」に仕えることへとつながっていたのだ。主イエスはかつて、ある律法学者に対して第一の戒めとして、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」と言われた。彼女は主イエスに対して心と精神と思いと力を尽して、香油をささげたのだ。いや、彼女自身を献げたのだ。その思いを受け入れた主イエスと彼女との間に「ラポール(相互の信頼)」が構築されていったのではないだろうか。心の架け橋はいつも主イエスからかけられる。そのおかげで、私たちは主と共に生きることが許されているのである。