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信仰・希望・愛

2021年4月18日 主日礼拝宣教

「信仰・希望・愛」 マルコによる福音書 13章3~13節

マルコによる福音書13章は小黙示録といわれ、主イエスが終末について語られたことが記されている。3節から13章の終りまでには、世の終わりと、キリストの再臨について記されている。

弟子たちは、終末がいつ来るのか質問した(4節)。主イエスはそれに対して、「気をつけなさい」(5)と言われる。その後も92333節に繰り返し「気をつけて」と言われている。それは、私たちはこの世の現実に惑わされて、神ご自身の支配、生ける神から目を離してしまうことがあるが、そうならないように神を見つめていくことが大切であることを教えている。終末がいつ来るかということよりも、私たちを造り、愛して下さる神を、どんな時にも見つめて生きていくことが、「気をつける」ということだと教えられる。

私たちはイエス・キリストの十字架のメッセージにのみ耳を傾け、他のことに気を奪われないようになって初めて、この厳しい現実を生きていくことができることを知っている。困難や苦しみに出会う時、それは確かに苦しいが、そんな時にも、神が私を愛しておられるという聖書のメッセージを聞き続ける時、何にも惑わされることなく歩み抜けることができる経験を証しすることがでる。

13節に、「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」と書いてある。誰でも人に憎まれるのは好まないだろう。耐え忍ぶというのは、「がまんする」とは違う。耐え忍ぶというのは、神の支配、愛を信じて生きていくこと。聖書で言う「忍耐」とは、ただ辛抱しているということではなく、希望を持って生きることである。ロマ書535 に「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」とある。

パウロにとって、イエス・キリストが復活したときにキリスト教徒は救われるという希望は、カギとなる概念だ。先のパウロの言葉に、苦難、次に忍耐、そして練達、最後に希望とくる。最初の苦難と最後の希望の間には、忍耐と練達が入る。希望を持つ人は、苦難を克服することができる。それは、現実の苦難を忍耐することが将来の救いにつながるという考え方があり、その忍耐を耐える術を身に着けて練達されていき、希望につながるというわけである。その根底にはキリストの十字架に示された神の無償の愛が私たちに無条件で注がれているからに外ならない。パウロの言う通り、「わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」ということがすべての前提にある。

だから私の人生がどんな人生であっても、神から愛されていることを信じるとき、私たちは希望を持って生きていくことができる。人は出会いによって生きる存在。独りでは生きられない。先週お話しした、コヘレトの言葉にあるプラスの算術である。私たちが、この知者の算術を心に深く留めようとするとき、思い起こすことは、イエス・キリストのプラス1の重さである。イエス・キリストの生涯を振り返る時、イエス・キリストがいかにマイナス状況の中にある人に、慰め、理解し、希望、勇気を与え、その人のプラス1になられたかを知り、改めて感動を覚える。その当時、様々に抑圧され、虐げられ、宗教的に、社会的にマイナスの存在とされた人々に対して徹底的受容を説き、そこを生き抜かれた。それがイエス・キリストである。

 

聖書は、わたしたちに語りかけられた神のことば。神の言葉は先ほど言ったプラス1となられるイエス・キリストを指し示している。その聖書のことばに耳を傾け、聖書のことばと対話をする。その中で、人は生きる意味を教えられ、自分の存在意義に気づく。愛すること、信じること、希望を持つこと、支え合うこと、赦すこと……などなど。どれも大切。しかし、答えを自分の中に見出すには、限界がある。だから聖書に聴きつつ生きていくことが大事なのである。そして整えられて、神に用いられていく。皆さんにぜひそのような信仰と希望と愛を神からいただいて、喜びの生活へと歩んでいただきたい。