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プラスの算術

 

2021年4月11日 主日礼拝宣教

 

「プラスの算術」 コヘレトの言葉4章4-12節

 

旧約聖書で宗教的に重要な働きをした人たちに中に、祭司、預言者、王、そして知者がいた。知者たちは旧約聖書の中で知恵文学といわれるコヘレトの言葉をはじめ、ヨブ記、箴言などの形成の母体となった人たちだ。彼らが目指したのは、新約聖書の第二テモテの手紙316節に「聖書は、すべて神の霊感を受けて書かれたものであって、人を教え、戒め、正しくし、義に導く」ことに労することだった。この知者のことをヘブライ語で「コヘレト」と呼んでいる。固有名詞ではない。

 

さて、今日はこの知者、コヘレトの言葉の44節から12節の御言葉からメッセージを受け取りたいと思う。48節は、人が独りで、仲間のない時の空しさ、また人がバラバラで、互いにそねみ、ねたみ、自分の利益のみを追求する時の空しさについて語っている。つまりマイナスの算術だ。

 

しかし、その後の9節以下はプラスの算術である。9節「ひとりよりもふたりが良い。共に労苦すれば、その報いは良い。」人生において二人は一人に勝る。二人が労する業には良い報いがある。この知者は、二人が一人に勝るということを10節以下、例で示しながら語る。

 

10節「倒れれば、ひとりがその友を助け起こす。倒れても起こしてくれる友のない人は不幸だ。」転んだ場合、それを助け起こす友がいる人は幸いである。しかし、転んでも助け起こす者がいない人は災いだ。二人は一人に勝る。

 

11節「更に、ふたりで寝れば暖かいが、ひとりでどうして暖まれようか。」二人で寝れば、暖かい。これは、古代において旅行した人が寒い夜に体を寄せ合って寝て、暖め合うことを言っているのだろう。それにしても人のぬくもりは何と大きな安らぎ、慰めを与えることだろうか。最近、老人ホームなどでは、動物セラピーというものが多くのところで取り入れられていると聞く。高齢者の方々が、大変嬉しそうに犬や猫たちを抱きしめたり、触ったりしているのをテレビで見たことがある。孤独で人と人との肌のふれあいの少ない高齢者たちにとって、それは大きな安らぎと心のやわらぎになっているようだった。とにかく、肌の触れ合いは心を暖める。

 

12節「ひとりが攻められれば、ふたりでこれに対する。三つよりの糸は切れにくい。」一人で立ち向かえず、また負けてしまう敵でも、二人でなら、それに立ち向かうことはできる。三つよりの綱はたやすく切れない。人は、一人ひとりでは無力であり、バラバラでは強い敵に当たることはできないが、団結する時、結束する時、外からの攻めに対して、また困難や危機に対してよく耐えることができる。

 

人生において、1+0は、単なる1ではない。1を下回る。人が一人であって、助け手、理解者、慰め手もいないとき、それは時には生きる希望を失わせ、死を意味する時がある。あまりにも空しい。

 

その一方で、人生において1+1は、単なる2ではない。それは慰めであり、力であり、希望の源泉となる。人生において1+1+1は、単なる3ではない。それは慰めと勇気と希望を与える結束の力である。

 

空の空、空の空、いっさいは空である。人の人生ははかなく、短い。そして人は脆く、弱く、限界を持っている、とコヘレトの言葉の冒頭の1章で知者は言う。しかし、同時に人が寄り添い、連なり合って、労苦するとき、報いがある、とここで知者は言う。

 

さて、旧約聖書はそれ自体では完結した経典ではない。キリスト者にとって、それは新約聖書へと開かれた書物である。私たちが、この知者の算術を心に深く留めようとするとき、思い起こすことは、イエス・キリストのプラス1の重さである。イエス・キリストの生涯を振り返る時、イエス・キリストがいかにマイナス状況の中にある人に、慰め、理解し、希望、勇気を与え、その人のプラス1になられたかを知り、改めて感動を覚えるのである。その当時、様々に抑圧され、虐げられ、宗教的に、社会的にマイナスの存在とされた人々に対して徹底的受容を説き、そこを生き抜かれた。

 

イエス・キリストは、このプラスの算術の貫徹者である。この方こそ、人の真の理解者、人に伴われる人であった。旧約聖書の説く、ヘブライ語のヘセド、慈愛の具現者である。

 

目には見えないが、神は苦しみを共に苦しんでいて下さる。かけがえのない皆さんお一人おひとりと共に、神は苦しみを共にして下さっている。それを示して下さったのはイエス・キリスト。

 

キリストの教会とは、目には見えないが、今も私たちと共にいてくださるイエス・キリストと心を共鳴させ、プラスの算術を生きている信仰共同体である。私たち逗子第一バプテスト教会もキリストと共にプラスの算術に生きる教会として、地域に、隣人にプラス1となれるよう励みたいと思う。