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疑いは純粋性のあかし

2021年3月28日 主日礼拝宣教

「疑いは純粋性のあかし」 ヨハネによる福音書20章19-29節

 トマスの言動が具体的に記されているのはヨハネの福音書だが、最もよく知られているものは主イエスの復活をめぐる場面のところである。彼は復活の目撃者の報告だけでは納得せず、実際に手とわき腹の傷に触れてみなければ信じないと、懐疑的な態度を示したという話だ。私が興味を抱いたのは、主イエスが復活した日の夕刻、弟子たちに姿を現されたとき、トマスがそこにいなかったことだ。

 不在の理由は記されていないのであくまで推論の域を出ないが、もしかしたら、ある聖書学者たちの言うように、トマスは主イエスの死を予期していたものの、それが現実となったショックが大きく「傷心のあまり会うに忍びなかった」のかもしれない。もしそうだとすれば、彼の不在は心の優しさの表れと言ってもよいだろう。悲惨な現実にふれて泣き崩れ、立ち上がれないような人は弱い人というのではなく、心の優しい人だ。言い換えれば、彼は愛の深い人だったということである。愛の深い人は悲しみも人一倍深く感じるからである。

 ところで、不在の理由が「傷心」でなかったとしても、トマスに関するもう一つの記録は彼の心を推察する手がかりになるのではないか。それは、ベタニヤに住むマルタとマリヤの兄弟ラザロが病気であると伝えられた時、主イエスの「さあ、彼のところへ行きましょう」という呼びかけを聞いて、トマスは他の弟子たちに「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか」と言っていることからわかる(ヨハネ11章)。トマスはこの時期にエルサレムと近距離にあるベタニヤに行けば、主イエスを捕らえようとしていたユダヤ当局により殺害される可能性を予想してそう言ったのだろうと思う。殉教してもいいというわけだ。

 このようなトマスの発言をどう解釈したらよいのだろうか。一時的、反射的な反応と言ってしまえばそれまでだが、仮にそうだったとしてもなんと勇気のある態度だろう。というより、主イエスをなんと愛していたことかと私は思ってしまうのだ。彼の精いっぱいの主イエスへの愛が表れているのではないだろうか。

 では、トマスが主イエスの復活のニュースを知らされたとき、なぜ「私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」と言ったのだろうか。ここで人は「懐疑論者」というラベルを貼る。しかし疑うという行為は反対から見れば信じたいということであり、信じられる証拠がほしいということは何としても信じたいという、複雑ではあるが信仰のもう一つの側面でもあるだろう。対象との関係が深いと言ってもよく、これは人間関係でも同じ。愛や信頼関係が形成されていく過程では疑いや不安の波も生じるのである。

 ポール・トゥルニエは「一番純粋な信仰とは、懐疑からまぬがれることを求めるものではなく、いろいろのためらいや錯誤、数々の失敗や間違った出発によって手探りで進むものである」(『強い人と弱い人』)と言っているが、懐疑をこのように理解することは求道や信仰に対する健全な態度であると思う。

 私がトマスに親しみを覚えるのは、このような純粋性である。このようなトマスなら何でも話せるような気持ちがする。なぜなら、そこに愛と純粋性を垣間見るからである。このように親しみを覚えるトマスだが、彼はその後に「わたしの主、わたしの神よ」と思わず主告白をする。それは主ご自身からのトマスへの働きかけがあったからだった。トマスはよく知っている主イエス、そのお方に間違いないかどうか確認したかったのだ。主イエスはその思いというか、疑いを拒否することなく、トマスに手と脇腹をお見せになり、触ることすらも許されたのだ。そして「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」とトマスに勧められたのである。そこでトマスは思わず「わたしの主、わたしの神よ」と告白せざるを得なかった。主はトマスに言われた。「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と。

 トマスは見る前に、弟子たちからの証言を聞くことで主を知る機会があったことを知らねばならない。私たちもまたパウロの言葉、「信仰は聞くことによる」(ローマ10:17)を思い出す必要があるだろう。同時に聞くことで信仰を得た人は、主から幸いな人であると言われていることを知らねばならない。主イエスのトマスに対する深い憐れみと愛は、疑い深い私たちに今も注がれている。そして主イエスは今日も私たちに呼びかけておられる。「信じない者ではなく、信じる者になりなさい」「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」。