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復活のいのちに生きる

2021年4月4日 イースター礼拝宣教

「復活のいのちに生きる」 コリントの信徒への手紙一15章35-57節

今日はイースターで、主の復活を感謝し、喜びの時。この時、私たちの信仰の核心である「復活」について、パウロの手紙から教えられたいと思う。

キリスト教でいう「復活」とは何か?そう自問自答する時もあるし、人から聞かれることもある。パウロも言っている。「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか、と聞く者がいるかもしれません」(35)。私たちのこのような問いは、物理的な復活、墓場からの復活を期待しているかのようだ。物理的に客観的に他人事のように問うている。この質問に対して、パウロは、問い方が間違っている、「愚かな人だ」と言っている。

では、パウロは復活についてどう説明するのだろうか。それが37節以降である。まず、種のたとえを用いて説明する。人が蒔くのは「ただの種粒」。しかし、その種粒から芽が出て、実へと成長するのである。つまり、種の死を通して、新しい芽が生き、豊かに実るのだ。さらに、種だけではなく、命についても、このことが当てはまると言う。「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです」(44)と言っている。まず、自然の命の体、生物的生命が与えられ、そこから芽が出て、やがて、霊の体になる、というわけだ。さらに、4243節では、「朽ちないもの、輝かしいもの、力強いものに復活する」とも言っている。復活によって、霊の体となり、命が生き生きと輝いてくるのだ。朽ちるしかない命が、霊の体として力強く生き始めるのである。これがパウロの復活論である。キリストを信じる信仰によって、古い自分が死に、希望をもって新しい命に生きる、ということである。

よく私たちは「あの人は化けたな」とか、「一皮も二皮もむけて、変わったな」と言って、良い評価をすることがある。私たちの人生においても、その人が何かを習得したり、感得したり、厚い壁を突破したりして、良い方に大きく変化することがある。言いたいことは、人間は変化することがあるということ。

復活ということも、変化するということにおいては同じではないだろうか。要するに、復活とは、霊的なものへの変化であるということ。ちなみに、この箇所には「今と異なる状態に変えられる」「私たちは変えられる」「朽ちないものに復活」「霊のからだ」「天に属する」「朽ちないものを着る」「死なないものを着る」などという言葉が使われている。復活とは、霊的な命への変化を意味する。そして、一人ひとりの、霊的な命への変化が「神の勝利」なのである。というのは、私たちはもはや罪や死に服従しなくてもよいのだ。罪に定められた命だけれども、死と罪から解放されて生きる、希望をもって生きることができるようにされていくのだ。これがキリスト者の自由、希望である。罪に打ち勝つ勝利である。なぜなら、キリストによって罪は贖われたからである。神の勝利とは、イエス・キリストを通して、一人ひとりが永遠の命に与れること。それゆえ、私たちは、罪と死と絶望から解放されて生きることができるのである。

勝利の様子が、4243節に書かれている。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに復活し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに復活し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに復活する」。この個所の「復活」を「変化」と読み替えてみよう。「蒔かれる時は朽ちるものでも、朽ちないものに変化し、蒔かれる時は卑しいものでも、輝かしいものに変化し、蒔かれる時には弱いものでも、力強いものに変化する」。これは励ましと慰めの言葉である。神を信じて生きる。それが私たちの命の本質である。神の導きに従って、喜んで生きる。感謝して生きる。これが復活の命、霊の体、永遠の命、神の勝利である。

 

復活の命に与ろう。一人ひとりに、いろいろな困難、苦しみ、悲しみ、絶望はあるが、その私たちに命を与えてくださるのがキリストである。キリストを通して、復活の希望が与えられている。一人ひとり、生きるに値する命である。そして、なによりも私たちが復活の命に生きることを神は誰よりも望んでおられるのである。