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自分の足で立つ

2021年3月21日 主日礼拝宣教

「自分の足で立つ」 ルカによる福音書15章11-24節

 今朝の聖書個所は主イエスが話された「放蕩息子」のたとえ話である。この話は「失われた息子」とも言われる。「失われた息子」という言い方は父親の立場からの見方になる。そのようにこのたとえ話の主役はやはり父親であり、この父親は神のたとえである。だからこのたとえ話は父親の言動を通して、神とはどのようなお方であるか、神の愛とはどのようなものであるかを物語っているのである。そして弟や兄は私たち人間をたとえている。兄と弟、ずいぶん性格や生き方は違うが、私たち人間とはどういうものであるか、その本質の一部分を見事に表現している。そして、父親と息子たちの関係を通して、神と人間の関係はどのようなものであるかをも教えてくれている。そのように、このたとえ話は、切り口によって実に多くのメッセージを受け取ることができる。今日はなぜ弟は救われたのか。弟の立場になって考えてみたいと思う。

この息子は、「やりたいことをやる」ために父親の家を出て行き、放蕩の限りを尽くす。やがて食う物さえ事欠くようになった。その時「彼は我に返った」。この「我に返る」ことが、この息子にとっての「回心」となる。

 しかし、放蕩息子が回心したことによって、息子の資格を得たのではないことに注意してほしい。彼は息子のように暮らしていなかったけれども、始めからずっと父親の息子だったのだ。ここが肝心なところ。彼が家へと向きを変えたのは、自分に対する父親の愛を思い出した時である。その時、その場で、彼は家に戻る決心をした。

 私たちの福音がどのような響きを立てているのか、ということをこの放蕩息子のたとえ話から知っていただきたい。それは恵みに気づくことが、悔い改めや変化に先立つということである。最初に来るのは、父親こそ「答え」であることをこの息子が思い出すことである。それは単純に、この父親は、この息子の父親であり、息子を愛している父親であるからである。続いて、この息子は、自分の問題を感じ取る、気づく。それは、自分の父親の息子としてではなく、家を失い、豚のように暮らしている事実である。そして最後に、この息子は悔い改める。つまり、家へと向きを変えるのである。回心である。家に帰ってみると、父親の愛は、それまで想像していたよりもずっと深く恵みに満ちたものであることを知らされる。これを境に、彼は変わったに違いない。このような恵みと受容を経験すれば、変わらずにはいられないだろう。彼は健やかにされていく。息子は、豚と一緒になってぬかるみに足を取られるのではなく、人間として、息子として、自分の足で立ち始めたのである。彼は救われた。しかし、あらかじめ家があり、父親があるから、私たちは家に帰ることができるのだということを決して忘れないようにしたい。答えが先にあるのである。恵みが先にあるのである。恵みの先行。それに気づいた時に、自分の現実を知らされるのである。自分の限界や弱さや小ささや罪深いことに思い至るのである。だから、ここで必然的に悔い改めが起こるのである。

 

 ここに、本当の悔い改めが訪れる。取り引きをしたり、仮面をつけたり、弁解したりする必要はない。私たちが過ちを認めても神は私たちを滅ぼそうとはなさらないことを知っているので、私たちは自分の姿を正直に認めることができる。本当に強くて、地に足をつけた人たちとは、素直に自分の過ちを認め、その過ちを正そうとすることができる人たちである。反対に、弱くて、不安定な人たちは、自己防衛と自己弁護を延々と試み、自分の行動を正当化しようとする。彼らはそうせざるを得ないのであり、何とかして自尊心の切れ端にしがみつこうとしているのである。しかしキリスト者は、そのような防衛は必要のないことを知っている。自分自身を変えるのは、自分自身に正直になることから始まる。だからこそ、悔い改めが「救い」と関わるのであり、私たちは悔い改めによって、神が常に望んでいて下さるような健やかさへと向かう道をたどり始めるのである。