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愛を退けないで

2021年3月14日 主日礼拝宣教

「愛を退けないで」 マルコによる福音書10章17-22節

ひとはどんなに素晴らしい人に出会い、またどんなに愛の眼差しを向けられても、その期待に応えるとは限らない。悲しいことだが、人間の心にはそういう現実がある。人は愛されることを喜ぶことも、それを拒むこともできる。主イエスに出会った人たちもそうだった。信じてついていった人たちもいたし、去って行った人たちもいた。この「富める青年」と言われている人物は去って行ったほうだ。

 彼は今でいえば、さしずめ高級エリート官僚といったところか、あるいはそれ以上かもしれない。金持ちでもあった。彼は当時、一般的な宗教的関心事でもあった「永遠のいのち」を得るためには「何をすればよいでしょうか」と主イエスに端的に問うた。その求道の姿勢は「走り寄って、ひざまずいて」とあるから、とても熱心でかつ敬虔なものだった。

 これに対して、主イエスはモーセの「十戒」の「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をするな、奪い取るな、父母を敬え」など、対人間に関する戒め六つを挙げられたのだが、彼はいとも簡単に「そういうことはみな、子どもの時から守ってきました」と答えた。これは人から後ろ指を差されるような生活はしていない、ということだ。確かに外面的には宗教的、また道徳的な人物であっただろう。

 しかしここで、主イエスは彼の抱えている問題の本質を見抜いて、「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる」と核心に迫られた。この言葉の真意を理解するには少し難しさがあるが、永遠のいのち(救い)を受けるためには無一物にならなくてはならないという単純な意味ではない。そうではなく、自分の価値観やものの考え方を変えないで、得るものだけは得たいという態度ではいけないということだ。

かつて、ある牧師が説教で次のような話をされた。目の前に一万円札がある。これをあげると言われる。しかし両手は握りこぶし。これでは一万円札は取れない。では、どうするか。そう、手を開けばいいのだ。そうすれば簡単に取れる。バカみたいな話だ。握りこぶしは自分の価値観や考え方をしっかり握りしめて離さないたとえ。一万円札は永遠のいのちのたとえ。これを得るには心を開けばいいだけというたとえ。

意外と私たちはここに登場する金持ちの男と同じなのではないだろうか。こういう傾向は彼のように自分の正しさ(神の正しさではない)に依存している生き方の人に多いのかもしれない。パウロもかつてはそうだった。パウロはフィリピ書367で告白している。「熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非の打ちどころのない者でした。しかし、私にとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失とみなすようになったのです」。  

求道中のあり方に加え、この物語で最も留意したい点は、金銭や物質にとらわれ自分の価値観を変えられず、イエスのもとから顔を曇らせ、悲しみながら立ち去っていく青年に対して、イエスは愛を持って接しておられたということだ。「その人をいつくしんで言われた」というのは、「愛情を込めて言われた」と言い換えてもよいだろう。

 ここに人間の悲しさがある。また神の悲しみもある。どんなに愛を注がれても、その愛を退けて自分の道を選択していく人間の悲しさが、この物語には漂っている。主イエスは青年に愛を持って語られた。しかし、彼はその愛を受け取る選択をしなかった。そもそも拒むことができるという自由が与えられていることそれ自体がイエスの愛なのだ。青年の悲劇は、愛を受け取ることができたのに富から離れることができなかったということだ。それにしても不思議なチャレンジを感じる物語である。読めば読むほど、イエスの愛を信じて受け取るように、という呼びかけが悲しい調べの中に聞こえてくる。 

 コロナ危機の中、新たな生活をとチャレンジを受けているようだ。現実から目を背けず、現実に固執せず、これをチャンスと考え、チャレンジし、チェンジするときかもしれない。