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キリストに背負われて

2021年3月7日 主日礼拝宣教

「キリストに背負われて」 イザヤ書46章3-4節

私たちは、「いっしょに遊ぼう」とか「いっしょに生きていこう」などと言われるとうれしくなる。小さい頃からなんでも「自分でやれ」「ひとりでできるだろう」「他人に頼るな、甘えるな」「人様に迷惑をかけるな」と言われ続けて育った私たちは、「いっしょに」と言ってくれる人がいると大変励まされる。特に小さい頃からいつでも自分は仲間はずれで、忘れられていると感じて育った者は、「いっしょに」と言ってもらうと、自分は独りぼっちじゃない、見捨てられていないと感じて、もうちょっと頑張れそうな気がしてくるだろう。それほど「いっしょに」は、とてもうれしいだけでなく、安心させてくれる言葉である。今日はこの「いっしょに」、言い換えるならば「ともに」と言ってくださるインマヌエルの主イエスが共に歩んでくださるだけでなく、背負ってくださる愛のお方であることを学びたいと思う。

私たちは、しっかりした、びくともしない信仰を持たなければ一人前のキリスト者とはいえないのだろうか。我ながらクリスチャンと名乗るのもおこがましく、「敬虔なクリスチャンとはとても言えないのですが」と言いながら、教会に連なっているのが偽らざる姿ではないだろうか。にもかかわらず、その端くれクリスチャンがキリストの体である教会を形成している事実をどう受け取ればよいのだろうか。

それは一にも二にも、私たちがキリストに背負われているからである。私は歩いていないが、キリストが私の足の代わりに歩いていて下さっている。私が歩めばよろめくが、キリストの足はよろめかない。私の行く手はキリストが行かれる方向。私は眠っているが、キリストが運んでくださっている。私の居るところには、キリストが共においでになっておられる。これがキリストに背負われた私の姿。しかもこの姿は「老いる日まで、白髪になるまで」(イザヤ書46:4)続くと主は言われる。

私たちは気づかないだけ、主に背負われていることに。自分の足で歩いていると思っている。それは、私たちが一人で大きくなったように思っていることと同じ。「あしあと」という有名な詩がある。初めて聞いた時、私は大変感銘を受けたことを今でも覚えている。一度聴いたら忘れられない素晴らしい詩である。

Footprint(あしあと)】

ある晩、男が夢をみていた。夢の中で彼は、神と並んで浜辺を歩いているのだった。そし­て空の向こうには、彼のこれまでの人生が映し出されては消えていった。どの場面でも、砂の上にはふたりの足跡が残されていた。ひとつは彼自身のもの、もうひとつは神のものだった。人生のつい先ほどの場面が目の前から消えていくと、彼はふりかえり、砂の上の足跡を眺­めた。すると彼の人生の道程には、ひとりの足跡しか残っていない場所が、いくつもある­のだった。しかもそれは、彼の人生の中でも、特につらく、悲しいときに起きているのだ­った。すっかり悩んでしまった彼は、神にそのことをたずねてみた。「神よ、私があなたに従って生きると決めたとき、あなたはずっと私とともに歩いてくだ­さるとおっしゃられた。しかし、私の人生のもっとも困難なときには、いつもひとりの足­跡しか残っていないではありませんか。私が一番にあなたを必要としたときに、なぜあな­たは私を見捨てられたのですか」神は答えられた。 「わが子よ。 私の大切な子供よ。 私はあなたを愛している。 私はあなたを見捨てはしない。あなたの試練と苦しみのときに、ひとりの足跡しか残され­ていないのは、その時はわたしがあなたを背負って歩いていたのだ」。

さて、私たちは、主イエスだけではなく、親や兄弟、親戚、教会の人たち、近所の人、学校の先生、友だち、職場の人などなど、実にいろいろな人たちに養われ、保護され、教えられ、助けられ、励まされながら成長してきたことを忘れてはいけないだろう。このことに気づかない時、独りよがりの、そして感謝の念を忘れて、わがままになり、人にいろんな迷惑をかけていることに気づかず生きていくようになるのではないか。私たちは人様のお世話になりながら生きている。そのことに気づくか、気づかないでいるかは大きな違いがある。さらに言うならば、その背後に主のご配慮と執り成しがあることを知って欲しい。そして主に感謝し、主に立ち帰ること。その時、まったく新しい地平が開けてくるのだ。

イザヤ書4634節には、「わたしはあなたたちを造った。わたしが担い、背負い、救い出す」と書いてある。私たちの神は、私たちを造られた神。だから必ず私たちを負うてくださり、持ち運んでくださり、救ってくださる方なのだ。決して私たちが負う、すなわち何かをしなければならない神、喜ばせなければならない神ではない。私たちは、ただその神を喜んで感謝するのみである。

 

11節には「わたしは語ったことを必ず実現させ/形づくったことを必ず完成させる」とある。神の言葉は約束。むなしく語られてはいない。神は語ったら必ず行われる方。聖霊の働きによって、このことは本当に信じられるものとされたとき、私たちは、見える現実がいかに絶望的であろうとも、その現実に支配されることなく、神の救いの約束の言葉は必ずなると信じ、希望を持って明るく生きていく、真の自由の人とされていく。パウロも「御霊は私たちに自由を与える」と語っている。私たちを造られた神が、私たちを負い、持ち運び、救いにいたらせてくださるというこの約束ほど、私たちに大きな喜びを与えるものはないだろう。