· 

信仰は聴くことから始まる

2021年2月28日 主日礼拝宣教

「信仰は聴くことから始まる」 申命記6章4-5節

 聖書は私たちに「聞け、イスラエルよ」(ヘブライ語で「シェマー、イスラエル!」)と呼びかけている。私たちは全身を耳にして向こう側から響いてくる声に耳を傾け、一心に聞かなければならない。「傾聴」である。耳を澄ませて聞くのである。主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」と繰り返し言われている(マコ4:9,23)。ヨハネの黙示録にも「耳ある者は、‟霊"が諸教会に告げることを聞くがよい」(2:7)と書かれている。

 神と人間との関係だけではない。人間同士の関係においても傾聴することの重要性は強調しても強調し過ぎることはないだろう。ホスピスや高齢者のための施設でも最近は傾聴ボランティアが重要な役割を果たしている。10年目を迎える東日本大震災でも、最初は避難所で、次は仮設住宅で、今では復興住宅で傾聴ボランティアが続けられている。コロナ禍にある今も同じである。引きこもり孤立している多くの人々がいる。何とかしてつながろうと電話やオンラインなど様々な工夫をして傾聴しようと努力がなされている。

 しかし、私たちは聞くことの鈍いものであり、そして意外と難しいもの。黙して聞いているようでも、頭の中であれこれ考えていて案外聞いてない。余計な先入観があって、それが聞くことを邪魔する。まして、言葉にならない思いを聞くことなどそうたやすいものではないことは生活体験の中で思い知らされている。

 ところで、今回、東京オリンピック・パラリンピック大会組織委員会の森会長が女性蔑視な発言をしたと批判され、辞任した。確かに差別的な発言だが、森さんの根本的な誤りは、人の意見や声を真摯に聞こうという姿勢がないということ。国民の声や思いを聞き取ることが大事な政治家にもかかわらずである。自分の地位、名誉や利権のことしか頭にないのだろう。それにしても、本当に相手の気持ちに焦点を合わせて一生懸命聴くということは決して楽なことではない。意識的な訓練も要するだろう。でも、できるだけ言葉を慎み、無となって相手の心に耳を傾けるよう心がけたいものである。

 もちろん神とのコミュニケーションにおいて、傾聴することが最重要であることは論を待たない。祈りにおいても、説教の準備においても、牧会、伝道においても、一番重要なことは語ることでも考えることでもなく、まず聴くことだと思う。虚心坦懐になって、ただ無心に向こう側から響いてくるものに耳を澄ませる。どのような喧騒と混沌の中にあっても私たち信仰者にはそのような姿勢が求められている。「シェマー、イスラエル」である。信仰は確かに聴くことから始まる。パウロもロマ書10:17で「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ロマ10:17)と語っている。

 神の御言葉を聴くためには心のアンテナを神に向けなくてはならない。次に心のダイヤルを神に合わせなくてはならない。しかしそれだけでは、神の言葉は入ってこない。私たちの心の耳を開かなくてはならないのだ。心のスイッチを入れると言ったらよいだろうか。これが難しい。私たちは自分大事さに心を閉ざしがち。心の奥底をのぞかれたくないからである。だから心のスイッチが入らないのだ。

 

 しかし、心の耳は開かれなければ救い(解放)はない。主イエスがその息を吹きかけてくださることを通して、言い換えれば聖霊の助けをいただいて、私たちの心の耳を開いてくださるよう祈り求めよう。主は命じられている。「エッファタ(開け)!」と(マルコ7:34)。声をかけるのは息を吹きかけるのと同じ。神の霊によって開かれるのである。今朝、主イエスによって心を開いていただき、御言葉を聴こう。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。