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神の教会に仕える

2021年2月21日 主日礼拝宣教

「神の教会に仕える」 使徒言行録20章25-38節

 使徒言行録の201835はパウロのミレトスにおけるエフェソの教会の長老たちへの決別説教である。この説教で、パウロは大変大切なことを長老たちに語っている。その中の28節に、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」とある。それは教会の主催者は神であるということ。聖書的に言うならば、教会は人間の集まりでも、人間の魅力で存在するのでもないということだ。私たちが信仰者を作るのではない。私たちはひとりの信仰者をも作ることはできない。私たちは神が聖霊を通して信仰を起こされることを信じるだけである。

 しかし、神の国の福音を伝えなくてはならない。伝えなければ始まらない。パウロは、27節で「神の御計画をすべて、ひるむことなくあなたがたに伝えた」と言っている。全力を尽くしたということだろう。しかし、それにもかかわらず、人間の教会ではなく、「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」と言う。続けてパウロは、私たちはただそのお世話をするだけだと言うのである(28)

 そのためには、「あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください」(28)と注意を促す。第一に自分に対して注意してくださいと言っている。確かに私たちが一番注意しなくてはならないのは、自分に対してだ。私たちは、いろいろと人に注意をする。しかし、本当に注意しなくてはならないのは自分自身ではないだろうか。そうでないと、いつの間にか、有難迷惑のお節介やきになりかねない。

 第二に、群れのことに気を配ることだ。この順序を逆にしてはならない。自分に注意しない人は、決して外の人々に注意することはできない。私たちはとかく、この順序を取り違える。「人のふり見て我がふり直せ」。人のふり見て、その人を注意するのではなく、その前に自分のふりをまず直す、注意する。それからだ、人に注意するのは。

そして、最後に「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます」(32)とパウロは言う。群れを神の言葉にゆだねるのだ。つまり「離す」のである。神に向かって離すのだ。勝手に放り投げるのではない。

 2930節を見ると、パウロは、自分がいなくなった後、エフェソの教会に様々な混乱や困難がやってくることを予測していたが、それでも「神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねる」と言っている。それは、32節にあるように「この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」と信じていたからにほかならない。「み言葉には、あなたがたを形成し、御国をつがせる力があります」と言うのだ。私たちもこの信仰が求められている。信ずることは、離すこと。そして待つこと。最後に祈ることである。それは神への信頼と期待である。

 パウロはこの別れの説教の最後で、もう一つ必要なことがあることを語る。それが「労苦して弱い人々を助ける」こと。その原則は、「受けるよりは与える方が幸いである」という主イエスの御言葉に尽きる。私たちは、しばしば貰うことが幸福だと考える。受けてばかりいると、私たちは自分自身を駄目にしてしまう。なぜか。受けることはいつも受身で、そこには自分というものが形成されず、かえって、衰えてしまうからである。自立することが大事。信仰の自立、それは主体的な信仰ということもできる。

 

 教会の中にあっても、自分が得ること、何かを受けることばかりを当てにした生き方をしてしまう危険がある。与えられるものが無くなれば去っていく。教会に通っても恵まれないからと言って教会を去る人もいる。だが、パウロは、教会に生きるということは与えること、これに徹して生きることが、どれほど幸いであるかを知ることだと言うのである。「神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会」につながる私たち一人一人も与えることによって、神の命に生きる、神の愛に生きる、そのように聖書は私たちに語っている。神の教会に仕える、隣人に仕える。それに徹して、これからも祈り励もう。