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パンを水の上に流せ

2021年2月14日 主日礼拝宣教

「パンを水の上に流せ」 コヘレトの言葉11章1-6節

コロナ危機とも言われ、一年以上たってもいまだ収束の見通しの立たない状況はまるで闇の中にいるようだ。不安と焦燥、職を失い、命の危険にさらされ、ストレスがたまるばかり。そのような状況で、虚無、懐疑、悲観といったマイナスのイメージ、ネガティブな考え、いうなれば闇が深まるばかりである。このことを鑑みながら、今朝は「コヘレトの言葉」からメッセージを聞きたいと思う。

この書の最初に「エルサレムの王、ダビデの子、コヘレトの言葉」(11)とある。「コヘレト」とはヘブライ語で「集会の主宰者、司会者」というほどの意味。そして、この書がダビデの子、すなわちソロモンの言葉を編集したものとほのめかしている。ソロモンは列王記上5章にあるように、非常に豊かな知恵と洞察力に優れた王であったと伝えられている。ソロモンは知者、あるいは賢者とも呼ばれていた。しかし、この書は編集された年代からいってソロモンの言葉ではないことが分かっている。知者、賢者と言われているソロモンの名前を借りてきたのだろう。

さて、知者、賢者の重要な働きは何だろうか?それは教えること、助言すること、相談を受けることにある。良き助言者であるためには、現実をよく知らなければならない。助言を受ける人々の置かれている現実を透徹した目で見るものでなければならない。その意味で知者は非常に現実主義者だ。それ故にコヘレトの言葉は、現実を熟知した言葉で始められている。12節に 「なんという空しさ/なんという空しさ/すべては空しい」と書かれている。「空しさ」「空しい」と同じ意味の言葉が三度繰り返されている。文語訳聖書では「空の空/空の空なるかな/すべて空なり」と訳されている。この「空」の原意は、「はかない、一時的、永続しない」。

コヘレトは事柄に対して大変否定的な見方をしている、と言ってよいと思う。だから、多くの人たちはコヘレトの言葉は虚無的、悲観的、懐疑的だと受け取っていて、どうしてこのような書が聖書にあるのかと訝しく感じる人が多くいる。しかし、知者であるコヘレトは、虚無的、悲観的、懐疑的現実を自分の事柄として体験しつつ、そのような現実をないかのように無視したり、振舞ったり、また流されたりはしない。むしろ、そこに留まりつつ、生身の身体をさらして、そこに生きる者の知恵を語っている。だから、今日与えられた聖書箇所の111節以下6節までは、「空の空/空の空なるかな/すべて空なり」の虚無、悲観、懐疑を十分に踏まえた上での、生への勧告であると理解する必要がある。そのことを111節から見ていきたい。

「あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日が経ってから、それを見出すだろう」(111)。この謎めいた言葉は何を意味しているのだろうか。パンは現代でも古代でも生きていくための基本的なもの、それ故に大切なもの。それを水に浮かべて流せ、とはどういうことか。

この勧めは、この言葉だけで単独に理解するのではなく、1116節の文脈の中でこそ解釈されなければならないように思う。その場合、16節に繰り返し出てくる言葉である「分からない」(256節)という人間の知的な限界に対する言及に注目したいと思う。限界に対して選択的に決断すること、これこそ人間の特権。「運命的なもの」にあらがうと言っていいと思う。

さて、パンを水に流すとは、どう見ても愚かで無謀な、無駄な行為と言えるだろう。しかし、ここでは、この愚かで、無謀な、そして無駄と思える行為を「せよ」と命令形で語られている。そこに肯定的な強い調子を見ることができるのではないか。そして、この愚かで、無謀な、そして無駄と思われる行為が後になって思いがけない良い結果をもたらすからであると語られている。しかし、よく考えてみれば、そういう愚かで無謀なそして無駄な行為が、必ず良い結果をもたらすという保証は、実はどこにもない。愚かしさは愚かしさで、無駄は無駄で、無謀さは無謀さで終わってしまうかもしれない。

そこで、この「パンを水の上に流せ」という謎めいた言葉を理解するカギ、キーワードだが、それが先ほど述べた「分からない」である。将来は「分からない」のだ。「一寸先は闇」とよく言われる通り。将来は私たちには隠されている。そして、その将来を私たちの思い通りに自由に支配することはできないのだ。しかし、ここで、そういう将来に不安、保証のなさ、不確かさの中にあるにもかかわらず、「月日がたってから、それを見いだすだろう」と、かくも積極的に人生の肯定が語られている。この111節に語られている謎めいた勧告に含まれているメッセージは、将来は私たちには隠されている。私たちはそれを知ることができない。先のことは確かに「分からない」。しかし、分からないからといって何もしないのではなく、分からないという限界に抗して、機会をつかんで、行動せよ、ということだろうと思う。以下6節までもそのような関連で読むべきだろう。

 

 人生は本当に何が起こるか分からない。一年前に世界中にコロナ危機が襲うとはだれが予想できただろうか。しかし、先の保証がないから、分からないからと尻込みしていても何も起こらない。機会をつかみ、未来の予知不可能に抗してパンを水の上に流さねばならない。風ばかり警戒していては種は蒔けない。未来の予知不可能に抗して種を蒔かなければならない。雲の観察ばかりして雨を気にしていては刈り入れはできない。未来の予知不可能に抗して、機会を得て刈り入れをしなければならない。どの種が良い実を結ぶかは分からない。しかし、未来の予知不可能に抗して、私たちが出来ることをしなければならない。そのように読んでいくと、これは、閉塞感の中にある私たちへの2000年前の知者、コヘレトからの、実は応援歌なのかもしれない。