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悲しみと赦し

2021年2月7日 主日礼拝宣教

「悲しみと赦し」 コリントの信徒への手紙二2章5-11節

5節に「悲しむ」という言葉が使われているが、何か不祥事があったようだ。教会の誰かがということだろう。詳しいことは書いてないのでわからない。それはパウロ自身にとって大きな悲しみであった。同時にそれはあなたがたすべての悲しみでもある、というふうにパウロは言っている。

パウロはここで、不祥事を起こしたその人に対する自分の思いを「悲しみ」という言葉で表現している。そして、その悲しみの感情をあなたがたも持ってほしい、というのだ。ひどいことをしてくれた、おかげで自分たちは恥をかいた、そういう意味での怒りや憎しみではない。あるいは、もうあきれ果てて突き放してしまう、という思いでもない。「悲しみ」である。パウロ自身が深く悲しんだ。自分たちの仲間の犯したそういう罪悪、あるいはスキャンダルであったかもしれないが、それをパウロは「悲しむ」という表現で言っている。

人は、自分のしたことに関して、怒りや憎しみを人々から受けて、そこで反省をして自分の非を認める、ということはあまりない。自分自身の非というものはわかっている。わかってはいるけれども、素直に認められない。人から責められて、そして「ああ、そうか」というふうに素直に認めることはなかなかできない。非はわかっていても反発をしてしまう。自分だけではないのではないか、というふうに考える。相手がそんなことを言ったり、やったりするから、そうなったんだと、人のせいにする。そういう形で自分に向けられている怒りや憎しみに対しては、人間はどこかで反発をする。しかし、自分のしたことに対して悲しまれるとき、人は苦しくなる。あるいは、そうやって自分のしたことについてほかの人が悲しんでいるということを知ったときに、自分の非、つまり間違いを知らされる、認めさせられるという経験をする。

ルカ福音書に、イエス・キリストが捕らえられて裁判を受ける場面が出てくる。弟子のペテロはその裁判のことを遠くから見守りながら、人々の中に混ざっていたのだが、あなたはあの人の弟子ではないか、あの人と一緒にいたのではないのかと言われて、彼は「知らない」と三度否認したと書かれている。その時のことがこう書かれている。「主は振り向いてペテロを見つめられた」(ルカ2261)。

これは有名な讃美歌にも取り上げられている。「新生讃美歌」486番の「ああ主のひとみ」の2節にこうある。「ああ主のひとみ/まなざしよ 三たびわが主を/否みたる 弱きペテロを/かえりみて ゆるすは誰ぞ/主ならずや」。これは否認したペテロ、あるいは裏切ったペテロを見た悲しみのイエス・キリストの眼差しである。その眼差しの中で、ペテロ自身は自分のやったことを本当に心底知らされたのである。だからペテロは「外に出て、激しく泣いた」のである(ルカ2262)。自分のしたことに対して周りの者が悲しむ、あるいは肉親が悲しむということは、誰にでも何かの経験があると思うのだが、悲しまれて初めて自分の罪悪を知り、あるいは自分のやったことに対する自分自身の痛みを経験するのだ。その悲しみによって、人は自分の罪悪を認めさせられるのだ。 

パウロはさらに6-7節でこう言っている。「その人には、多数の者から受けたあの罰で十分です。むしろ、あなたがたは、その人が悲しみに打ちのめされてしまわないように、赦して、力づけるべきです」。「多数の者から受けたあの罰」というのは、これもまた聖書に書いてないのでよくわからない。ただ、おそらく人々から何らかのことを言われたのだろう。あるいは注意、𠮟責をされただろうと想像される。

しかし、それで十分だとパウロは言う。もうそれ以上追い詰めてはいけないと言う。そうでなくて、「赦して、力づけるべき」と勧めるのだ。そして、「愛するようにしてください」とも書かれている。赦すということは、痛みを自分も負うということを意味している。自分が痛むことも苦しむこともなく人を赦すなんてことは普通にはできない。赦すということは、自分も痛い思いをし、苦しい思いをすることである。特に、自分にかかわる出来事、自分が赦さなくてはならないときには、何らかの傷を自分も受ける。

無償で赦すということはない。人々からの責めをそのそばに立って一緒に受ける。赦すということは、たぶんそういうことだと思う。そして「力づける」というのは、ただ「がんばれ、しっかりやれ」と言っているのではない。痛みを共有している、一緒に苦しんでいる、その罪のために、そのやったことのために、一緒に苦しんでいる者として力づけるのだ。

 

なぜパウロがこういうことを言っているのかというと、これはイエス・キリストの私たちに対する関わり方であるからだ。イエス・キリストは私たちの罪をご自分の痛みとして、身に負い、そうして一緒に悩む方として、私たちを励ましてくださる、あるいは力づけてくださる方だった。向こう側から、離れたところから、「がんばれ」と言っているのではない。あるいは、上のほうから「しっかりしろ」と声をかけているのでもない。私たちの悩みのただ中で、一緒に罪を担いながら、共にいて、そして励ましてくださる。これこそ、イエス・キリストが私たちの救い主であるということの意味。かつて私たちを救ってくださったという、そんなことではない。今も私たちの救い主でいてくださる、私たちの罪を担っていてくださる、今も一緒にこの道を歩いてくださる。そういう中での励ましをいただきながら、私たちは生きているのである。