古くて新しい教え

2021年1月31日 主日礼拝宣教

「古くて新しい教え」 ヨハネの手紙一2章7-11節

ヨハネは7節で「愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です」と記している。ヨハネの手紙とヨハネ福音書の間には信仰的に深い関係があると言われている。だから、この「古い掟」とは、ヨハネ福音書の「イエスの告別説教」といわれている箇所で主イエスが言われた「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である」と考えられる。「古い掟」とはこの「互いに愛し合いなさい」という教えだといえる。

ここで、ヨハネがあえて「古い掟」と記しているのは、教会に混乱をもたらした異端者たちが、教会に伝えられてきた教えを「古いもの」と言っていたからだ。つまり、異端者たちは「互いに愛し合いなさい」という教えはすでに古くなった過去のものだからもう捨てても構わないと教えたのだ。そしてそれは、キリストの弟子たちが互いに愛し合うことを否定することだった。

異端者たちはイエスの教えを古くなったと退け、自分たちの教えを新しいものであり価値のあるものだと教えた。そしてその教えによって教会の中に対立が起こり、教会の交わりが壊れ憎しみが起こった。その教えは「愛」を欠くものだった。

パウロはコリントの教会を悩ませた異端者たちを「自分で自分を推薦する人」(第二コリント1017)と指摘しているが、ヨハネの教会に現れた異端者たちにも同じ傾向にあったようだ。彼らの関心は、自分を推薦すること、自分自身で光り輝くことだった。私たちも「光り輝きたい」「認められたい」「愛されたい」という思いを持っている。しかし、自分自身が光り輝くために他者を否定するということは許されない。異端者たちは「兄弟を憎む」、つまり他者を人格的に否定した。ここには愛が欠けている。

ヨハネは9節で、「『光の中にいる』と言いながら、兄弟を憎む者は、今もなお闇の中にいます」と言う。異端者たちは「私たちは光の中にいる」と主張していたのだ。そして異端者たちは「(私たちは)神を知っている」(4)と言い、「(私たちは)神の内にいつもいる」(6)と言っていた。この神とは主イエスのこと。異端者たちは自分たちこそイエスのことを知っている者であり、イエスに属していると主張した。これに対してヨハネは4節で、「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません」と記す。また、6節では、「神の内にいつもいると言う人は、イエスが歩まれたように自らも歩まなければなりません」とも記している。

ヨハネは、この世に肉の体を持ってこられたイエスの歩みに目を向けることの大切さを示している。ヨハネ福音書によればイエスは最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗い、「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(1314)と言われた。イエスは行いによって御心を示し、ご自身の行いに倣うことを弟子に求められたのだ。

異端者たちは歴史の中を歩まれた主イエスの姿を見ようとしなかった。もし、主イエスの地上の生涯に目を向けるなら、イエスが愛を第一にして行動していたことがわかるだろう。主イエスのようには歩めない人間の現実、しかし、主イエスに倣って歩もうとする者は、私たちに注がれた神の愛の尊さを知る者となるだろう。

ヨハネの教会のメンバーの中には、新しいものを求めた人がいた。そして、彼らは異端の教えを受け入れてしまった。ヨハネはそのような人たちを「自分ではどこに行くのかわからない」人々であると言う。10節、11節で次のように言っている。「兄弟を愛する人は、いつも光の中におり、その人にはつまずきがありません。しかし、兄弟を憎む者は闇の中におり、闇の中を歩み、自分がどこへ行くのかを知りません。闇がこの人の目を見えなくしたからです」。原点、ここでいう「古い掟」だが、それを見失った時、人は自分がどこにいるのかも、どこに向かっているのかもわからなくなってしまうということだ。

「互いに愛し合いなさい」という教えは、古くて新しい教え、常に変わることのない主イエスの教えである。私たちも愛の業に励み、光の中を歩んでいこう。