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神の憐れみに生きる

 

2021年1月10日 主日礼拝宣教

 

「神の憐れみに生きる」 創世記4章1-16節

 

 今日の聖書箇所で、兄カインは神に腹を立て、激しく怒り、顔を伏せる。理由は弟アベルには目を留められたのに、なぜ自分には目を向けてくれないのか、というもの。人間的な思いからすれば当然のように思われる。しかし、この物語には事の善し悪しの最終的な判断は人間にはなく、神にあるのだという意味が隠されている。カインもアベルも自分の判断で最も良いと思うものを献げ物として持って来たに違いない。けれども究極の判断は神がされるのである。神はアベルの献げ物をよしとされた。カインがこれをよしとせずアベルを殺すのは、己の判断が正しいとする自己の絶対化に他ならない。人間の判断は、相対化されねばならない。一歩引いてみる。自分を相対化してみる。そこから謙虚さというものが生まれてくるのではないか。たとえ私が正しいと思われる時でも、究極的に正しいか正しくないかの判断は神の手にあり、私の側にないとする生き方。それは神を信頼し、神にゆだねる信仰でもある。そのような態度は、相手の立場をも包み込むことができるのであり、赦しを人と人との間に置くことができる。

 

さて、今度は神ご自身のなさったことに目を向けてみよう。激しく怒ったカインに神が声をかけられる。「どうして怒るのか?」。それは、神が決して彼を無視していたのではないことを示しており、カインが神と語り合う絶好のチャンスだったのだ。しかし、カインはその声に応えなかった。なぜカインは素直に胸の内を明かさなかったのだろうか。どうして怒りの気持ちをぶつけなかったのだろうか。振り返ると、私たちもカインと同じように、腹の立つ相手に向かい合う勇気がない、不可解なことを尋ねる勇気もない、顔をそむけて黙り込み、自分の内側に逃げ込んでしまう、そのような経験があるのではないか。

 

 カインの激しい怒りは、より弱い立場の弟アベルに向けられた。弟さえいなければ、との恨みの思いが心に溢れてきたのだろう。自分のことしか見えなくなっていたカインは、弟アベルを呼び出し殺してしまった。その時のカインは、神に対する思いも隣人に対する愛情も消えうせていた。結果、自分を支配している激しい怒りに自分自身が見えなくなっていたのである。激しい怒りという感情に支配されていたということだ。

 

兄のカインだけが残った。神はカインに声をかける。カインはすぐさま「知りません。わたしは弟の番人でしょうか」と言う。彼は、最初の神の声には答えなかったが、二度目の声には即答している。とはいえ、どちらも、神に向かってまともに応えていない。最初の声には顔を伏せ、口を開かなかった。二度目の声には知らぬ振りをした。どちらも、まっすぐ神に向かって答えていない。声をかけられても、逃げ隠れ、ごまかそうとする点では同じである。カインは神から逃避しようとしている。同時に、罪に飲み込まれる弱い自分自身を受け入れることができず、自己からも逃避している姿がそこに見え隠れする。

 

弱い人間の姿がここに描かれている。聖書は、アダムとエバの物語で表した人間の罪「自己中心、エゴイズム」をここでも表現している。「何ということをしたのか」。真実を見抜いている神の目は、まっすぐカインに向けられる。この神の言葉は、彼の父母アダムとエバに向けられたかつての言葉(313)と同じである。

 

「お前の弟の血が土の中から叫んでいる」。神のこの言葉は、殺されたアベルの姿を彷彿とさせる。カインは、ドキリとしたに違いない。暴露された彼はパニックに陥ったことだろう。「今、お前は呪われる者となった」。神の言葉はストレートである。「お前は地上をさまよい、さすらう者となる」。三度目の神の言葉になって、カインは初めて答える。「わたしの罪は重すぎて負いきれません」。カインは、初めて神に向かったのだ。と同時に自分自身が見えてきたのだ。何ということをしてしまったのか、彼は自分の罪を自覚したのだ。この時、自分自身がはっきりと見えたのだ。神に向かうことは、同時に自分を見つめることであることがよくわかる。

 

弟の命を奪ったカイン。彼自身は生き続けようとしたが、生きることの重さを今さらのように気づかされる。与えられた自分の命を生き抜くことは、それだけで実に重いことである。まして他者の命を奪うことは、自分の命に加えて、他者の命の重さをも背負うことになる。奪った命をどこかで放り出すことはできない。どこまでものしかかってくる。背負いきれない重さとなる。

   けれども……、と聖書は伝える。神は、誰もカインを撃つことのないよう、生き抜くことができるようカインに印を付けられた、と伝えている。神は、負いきれない重荷を担いつつも生きることを望まれ、徹底的に命を大切にされる、と伝えているのだ。神は殺人者カインを殺しはしない。むしろ誰もカインを撃つことがないようにとカインに印を付けられる。この印はカインが罪を犯したことを示すと同時に、共同体を追われ命の危険にさらされるカインを「これは私のものだ、手を出すな」と神が保護していることを示すしるしでもある。神はカインの殺人に対して、殺さないことで応え、さらに印を与えてカインを殺させないようにし、報復の連鎖を断ち切られるのである。こうして神は、罪は罪として明らかにしつつ、なお憐みをもって生きる道を与えてくださるのである。時に感情的に支配され罪を犯す者でありながら、なお神の憐みのなかに生かされている私たちもカインの末裔だといえないだろうか。だから神が私たちにしてくださっているように、どんな状況に置かれても決して殺さず、相手を否定せず、対話をし、向き合って、共に神の前に生きていきたいと思う。それは、神にゆだね信頼して歩むことでもあり、主の希望をもって歩むことでもある。