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キリストに向かって成長しよう

 

2021年1月3日 新年礼拝宣教

 

「キリストに向かって成長しよう」エフェソの信徒への手紙4章7-16節  

  今朝の聖書個所には、キリスト者が共同して、共に成長していくものであることが述べられている。それには、まずキリスト者は「成熟した人間になり、キリストの満ちあふれる豊かさになるまで成長する」(13)こと、また「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長していく」(15)こと、そして「キリストの体を造り上げてゆく」(12)ことが求められている。

 

 では、キリスト者の成長とはどのようなものだろうか。一般に人は逆境の中でいろいろな問題にぶつかって苦労して、そこでいろいろなことを学び、また、人間関係の中でもまれて成長する、と言われる。「艱難汝を玉にす」という格言もある。確かに現実の人生ではそうだろう。しかしキリスト者の成長は、そのような成長とは違う。誤解しないでほしい。先ほど言った「艱難汝を玉にす」ということを否定しているのではない。「若い時の苦労は買ってでもせよ」ということわざがあるように、それは確かにそうだと納得するものがあるし、現実の生活の中ではそういうものだと経験からも言える。しかし、ここで言いたいのはキリスト者としての成長ということを考えた時に、また別の何かがあるのだということだ。

 

ではキリスト者の成長とはどのようなものだろうか?キリスト者の成長は、イエス・キリストが自分の中に大きくなっていくこと。キリストを知って、次第にキリストが分かってくることであり、キリストによって自分の心が占領されていくことである。そして「キリストの心を心とする」「キリストの香りを放つ者」とされていくことである。

 

 私たちが気を付けなければならないのは、この世の中にはいろいろな誘惑があり、それに心が占領されやすいということである。たとえば仕事、地位、名誉、お金、家庭のこと、子どもの教育、健康のことなどで心がいっぱいになり、キリストの入る余地がない状態になりやすいということである。ここでいう「未熟な者」(14節)と言えるだろう。未熟な者はいろいろなものに縛られ、囚われているがゆえに心が頑なになって、固くなっていくからである。

 

 そのような未熟な私たちが、だんだんと私たちの中で、キリストが根を下ろし、キリストが自分の中の最も深い部分を占領してくるためには、霊の呼吸、すなわち神への祈りと、霊の糧、すなわち御言葉による養いが必要である。日々、神に祈り、御言葉によってイエス・キリストを知ることを通して、心が硬くならない道へと向かってこそなのだ。祈りの生活を常に絶やすことなく、霊の交わりを持ち、キリストにあって堅く立つ。また御言葉によって整えられ、固く立つことである。

 

 そうするうちに、だんだんと私たちの中で、キリストが根を下ろし、キリストが自分の中の最も深い部分を占領していく。そしてそれが、次第に大きくなっていくのである。自分の意志ではなく、キリストの心を心として、キリストの意志を行おうと、努めはじめるようになるのである。そのようにしてキリストイに向かって成長するのだ。

 

 私たちは霊の呼吸と霊の糧によってキリストの満ちあふれる豊かさにあずかることができる。祈りと御言葉によって、「頭なるキリストに向かって成長していく」のである(15)。昨日も今日もいつまでも変わることのないキリストに、もっと深入りをして、キリストが私たちの生活の中でますます大きな場所を占めていくように、私たちは成長していきたいと思う。神は土の器にひとしい私たちを分に応じて用い、光栄ある神の業に参加させて下さっている。私たちが愛によって共に働き、おのおのの最良の部分を持って共に奉仕する時、それぞれの部分は調和を持ち、キリストの教会として成長するのだ。一人一人の、キリストに向かっての成長というものは、ともに祈り、共に心合わせて賛美し、感謝し、奉仕をなし、共に御言葉によって整えられて成長していく。そしてその総体として、キリストの共同体である教会もまたキリストに向かって成長していくのだ。