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アドベント・新しい備え

 

2020年12月20日 クリスマス礼拝宣教

 

「アドベント・新しい備え」 ルカによる福音書1章5-25節

 

 今日は教会暦でアドベント第4主日礼拝である。アドベントはクリスマス前の4週間を指す。第4アドベント主日礼拝をしたその週、いよいよクリスマスがやってくる。日本語では待降節と言うが、アドベントとはどんな意味があるのか?アドベントとは、ラテン語の前置詞「アド」「~に向かって」、「ベント」「来るべきもの」から来ている。「来るべきもの」とは「救い主・キリスト」なので、「救い主に向かって」の日々、すなわち待降節と呼ばれるわけである。「待つ」とは漫然と無為に時間を過ごすことではなく、キリスト・イエスに向かって「待つ」ということだ。

 

 以前、新聞で読んだのだが、「待つ」とは、自分ではどうにもならないこと、また自分以外のところでの事柄なので「待つ」ということが起こるのであり、だからこそ祈りが生まれるのだとあった。なるほどと思った。「人事を尽くして天命を待つ」という格言もある。

 

ユダヤの人たちは預言者が預言した救い主を長い間待ち望んできた。祈り続けてきた。主イエスのご降誕は、その祈り、待ち望んできた預言が成就された出来事であったのである。それは、自分たちでどうすることもできない、ただただ神のなさる出来事として実現したのである。そこに主イエスの誕生の大きな意味がある。 

 

神が私たち人間の世界に働きかけられたというのは、驚くべきことである。そのことはザカリヤの記事でも示されている。ザカリヤが香をたいているとき、御使いが現れた。私たちは神に仕え、献げ物をしたり、香をたいて神の喜ばれるようなことをするのが、宗教であると思いやすいが、確かにそれらは宗教行為であり儀式ではあるが、問題はなぜそのようなことをするのか、ということの本質をしっかり押さえておく必要があるだろう。

 

ここでは神がザカリヤに御使いを送ってこられた。神のために人間が何かしていくものだと思っていたのに、神の方から近づいてこられたのだ。聖書が私たちに訴えているメッセージとはそれである。そこに他の宗教とキリスト教の違いがある。どうして神を喜ばせていくかということではなくて、神が私たちの方へどのようにして近づかれ、何をされたかに目を留めていくのがキリスト教である。「成就された出来事」というのは、大事な言葉である。神がなしてくださった。そこにすでに著者であるルカのイエス・キリストに対する信仰の告白がなされている。

 

 ヨハネの父ザカリヤとその母エリサベツは、「二人とも神のみ前に正しい人であって、主の戒めと定めとを、みな落度なく行っていた」人だった。旧約の思想では、正しい人は神から祝福を受ける。例えば、子孫繁栄、あるいは国や事業が繁栄するとかいうことを神の祝福のしるしと受け取ってきた。ところが神の前に正しい行いをしていたザカリヤたちには子どもが授からなかった。それは理解できないことだっただろう。

 

 私たちはよく「どうして」と問う。神に対してもそれを言うことがある。「どうして、そんなことが、私にわかるでしょうか」(口語訳118)、マリアも「どうして、そのようなことがあり得ましょうか」(134)と言っている。それは神を自分の秤で計ろうとしているからである。自分が理解し、納得できたら信じようという生き方である。そこでは神ではなく自分が主人になっている。

 

 私たちの信仰の基盤は、私のような者を神が心にかけて下さったということを知ることにある。エリサベトは「主は今こそ、こうして、わたしに目を留め、人々の間から私の恥を取り去ってくださいました」(125)と言っている。マリアも「身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださった」(148)と告白している。私たちが神を信じるのは、自分の成長のため、また人生の問題で悩んだり、苦しんだりした時には、どうしても助けや慰めがいるからだ、と言う人がいるが、キリスト信仰とはそのようなものではない。苦しい時の神頼みではない。確かにそういうことが動機だったということはあるだろう。でも、やがて、神はこの私を心に掛けて下さっていたんだということに気づくところから、ほんとうの信仰が始まるのである。41節にある「私の魂は主をあがめ、私の霊は救い主なる神をたたえます」とあるが、これがキリスト信仰である。キリスト信仰は、神が私のような者を心に掛けてくださった、そのことに気づくところから始まるのである。

 

 それは神ご自身の私たちに対する、限りない愛から始まる。そのことに気づき、受け取ろう。神の恵み、プレゼントを。