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愛には恐れがない

 

2020年12月13日 主日礼拝宣教

 

「愛には恐れがない」 ヨハネの手紙一4章7-21節

 

 ギリシア語には「愛」を表わす言葉がいくつかある。男女の愛を表わす「エロース」はよく知られているが、神の愛を表すギリシア語は「アガペー」である。十字架によって示された神の愛を表わすのに、「エロース」は適当ではない。なぜなら、男女の愛は自分にとっての価値あるものに対する愛だからである。しかし、神が人を愛するというのは、相手の価値を問わない愛なのである。この価値なき者への愛という、新しい意味を「アガペー」という言葉で表した。

 

 「アガペー」に示された神の愛は、対象によって起される愛ではない。「エロース」の愛などは、愛する対象の美しさや魅力といった相手の価値によって引き起こされる愛である。しかし、神の愛は対象によって引き起こされる愛ではない。「神は愛なり」(4816)といわれる神から一方的に無条件であふれ出る愛なのである。

 

 また、ヨハネは神の愛が私たちの愛に先立っていることを示している。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、…」(410)と書いている。私たちの常識は、信仰とは私たちが神を愛することから始まると考えがちだが、聖書は、信仰とは神が私たちを愛してくださったことから始まると言うのである。神の愛の先行。しかも私たちが愛されたとは、私たちの罪をあがなう生けにえとして御子が遣わされたことだとヨハネの手紙は言う。神の愛の後ろには、私たちの罪のために死んでくださるお方がおいでになるということは、決して尋常なことではない。ここで言われる罪(ハマルティア、的外れ)とは、神への背信を意味する。にもかかわらず、不信仰なる者のために御子であるお方のいのちが捧げられたということから本当に尋常なことではないことが分かる。それが神の私たちへの愛の形である。無償の愛である。私たちがこれをお願いして、そうしてくださいと言ったわけではない。それどころか、そんなことが私たちのためになされたということすら知らない、気づかない。そんな私たちへの神の愛し方であると言われているのである。一方的で、無条件で、無償の愛、それは永遠でもある。これが聖書の常識で、この常識を我がものとすること、我がこととして受け入れること、信じることが信仰である。

 

 さらに、この神の愛は「愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します」(418)と書いてある。愛とは、徹底して相手の存在を肯定することに繋がる。神が私たちを愛してくださったとは、まさしくそのことを意味する。存在を肯定するとは、ある事をすればよしとされ、違うことをすればだめだとされるのと違う。愛は相手の価値を問わない。無条件。どのような在り方であろうと、そこに「いる」ことがよしとされる。それが存在を肯定されることである。神の愛とは、そういう愛。99匹の羊を野に残して、一匹を探す羊飼いの姿にこの愛を見ることができるだろう(ルカ15)

 

 どこまでいっても「いる」こと、「ある」ことで愛されている。安心感がある。たとえ心配で眠れない夜を過ごすようなことがあっても、「いる」ことが肯定されていれば、「そのままの自分でいいんだ」「心配するような自分でいいんだ」と思えてきて、心配をしなくなるというより、心配をする自分を受け入れることができるだろう。さらに言えば、そのような事態になれば、心配をしないならば事は解決をしないのだから、むしろ心配するのが当然であるという心境に至ることができるだろう。その心配する私という存在をそのまま丸ごと愛してくださるお方がおられる。何と心強いことだろうか、なんという慰めだろうか。それこそ、「完全な愛は恐れを締め出す」と言えるだろう。そのような神の愛によって、慰められ、励まされ、生きていく力をいただいている。さらに主に信頼して歩んでいこう。