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神の光の中を歩む

 

2020年12月6日 主日礼拝宣教

 

「神の光の中を歩む」 ヨハネの手紙一1章5-10節

 

 ヨハネの手紙が書かれた時代(紀元90-110年頃)はまだキリスト教の歴史も浅く、指導者の数も限られていた。礼拝を共にする集会があちこちにあったが、その一つ一つに指導者はいなかった。指導者は集会を巡回し、時にはヨハネのように手紙という手段を用いて指導する場合もあった。このような状況の中で、指導者不在の集会に異端的思想を持った人が入り込んできたりした。彼らは教会の人々にヨハネをはじめとする指導者たちから教えられたことと違う教えを語った。それを聞いたある者はその教えを拒否したが、ある者はその教えに魅力を感じて、ヨハネから伝えられたことを捨ててしまった。そのために、教会の中に深刻な対立が生じて、この対立は教会を分裂させ、ある者たちは福音を捨てて教会から飛び出していった。

 

 それでは、教会に分裂をもたらした異端的思想とはどういうものなのだろうか。それはいわゆるグノーシス主義と言われるもので、ギリシア哲学に影響を受けた二元論に立つ思想である。人間を霊と肉に分け、それを対立的に考える。すなわち霊は真理であるが、肉は偽りと考えるのだ。従って、神が偽りである「肉」をとってイエスとなったということ(受肉)を否定するのだ。そこで、ヨハネは手紙の冒頭で「初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言葉について」(11)と記している。この言葉は、神の子イエスが肉体を持った人となり、世に来られたことを表している。分裂をもたらした人々は、この事実を否定していた。このようにキリストが人として生きられたことを否定する思想を持った熱狂主義的な巡回指導者やそれに影響された人々が、教会を惑わせていたのである。

 

 教会に分裂をもたらした異端者たちは「私たちには罪がない」(8節)と言っていた。なぜなら、グノーシス主義者にとって肉は偽りであって、その肉体が犯した罪は実態のない偽りであり、責任は問われないという論法なのである。これは人間の現実を無視している。私たちも、罪というマイナスの評価を受け入れたくないために、現実から逃げようとしたり、見ないことにしたりする。そこで、ヨハネは、罪の自覚の重要性を示す。8節で「もし、罪がないと言うなら、それは自分を欺くこと」と記している。

 

 私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことである。それは、罪人という人間の現実と向かい合うことを意味する。この現実を受け入れたところにこそ真の救いがある。私たちにとって大切なことは、神の光の中を歩むことである。しかし、異端者たちは神の光の中を歩むことではなく、自分自身が光り輝くことを願った。そして自らの正しさを示すために、他者を見下したのである。

 

 ヨハネによる福音書も含めてヨハネ文書には「光と闇」というように二つの対立する場を示す特徴がある。例えば、ヨハネ福音書の15節には「光は闇の中に輝いている。そして、闇はこれに勝たなかった」とある。ヨハネの第一の手紙の著者であるヨハネも、神と交わりを持つ者は光の中を歩み、神に反する者は闇の中を歩む(56節)と「光と闇」という対立する場を示している。そして、光の中を歩む者は「互いに交わりを持ち」「御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めるのである」(7)と書く。つまり、光の中を歩むというのは罪の赦しの中に生きていることなのだと言うのである。

 

 聖書は、神の光は私たちの罪を照らし出す、つまり指摘するという。しかし、その光は罪をあぶりだすことにとどまらず、自分の罪を受け入れた人に、その罪を赦す神の愛を示す。ヨハネ福音書316節に「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」とある。もし自分には罪がないと言い張るなら、この愛の尊さと、永遠の命の価値を知ることはできないだろう。そしてそれは福音を拒むことになるのである。

 

 ヨハネによる福音書8章の「姦淫の場でとらえられた女」の記事で、イエスは女に「私もあなたを罪に定めない」と言われた。イエスがこのように言われたのは女に罪を認めないというのではない。そうではなく、「あなたの罪は私が負う」という福音の宣言ではないだろうか。

 

 自分自身を受け入れるというのは、自分を良い者とするのではなく、内なる罪、欠けや弱さを事実として認めることこそ自己を受容することである。ここに罪の告白の必要がある。ヨハネは9節で「もし、私たちが自分の罪を告白するならば、神は真実で正しい方であるから、その罪を赦し、すべての不義から私たちを清めてくださる」(9)と言っている。イエスの十字架と復活はこの「赦し」と「清め」のことなのだ。

 

 私たちは自分の罪と向かい合うとき、イエスの十字架の血による贖いを自分自身のこととして受け止めることができる。神の光の中を歩むというのは、神の赦しを受け、愛の中を歩むということである。福音に生かされているということなのだ。神の光の中へ歩み出そう。