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御言葉に料理される

 

2020年11月29日 アドベント第一礼拝宣教

 

「御言葉に料理される」 マタイによる福音書13章18-23節

 

 マタイによる福音書13章は、主イエスがもたらされた福音を譬えで話されたところである。種まきの譬えに始まり、毒麦、からし種、パンの譬え、次いで宝を隠している畑、真珠、湖におろされた網などが語られている。これらの物語の核心を捕まえないと、主イエスがそこで何を語ろうとされているのかを見逃してしまうだろう。

 

 まず種の譬えであるが、種には命があるということ。御言葉を種で譬えているから、御言葉には命があるということだ。それが主イエスが言わんとされるメッセージである。よく御言葉には力があるとか、御言葉は生きて働くなどと表現するが、それは御言葉に命があるからにほかならない。

 

 以前読んだ本に次のようなエピソードが書かれていた。エジプトのピラミッドの中で一つの壺が発見され、それがロンドンの博物館に飾られたが、あるそそっかしい館員がそれを落として壊してしまったそうだ。ところが中から何か小さいものが出てきたので鑑定に回した。そのうちに壺の落ちたあたりから小麦が伸びてきたのだ。何千年も前のものですっかり干からびてはいたが、命があったのである。同じような話は日本にもある。ハス博士で有名な大賀一郎博士が1951年に千葉県で2千年以上前のハスの種を発掘し、その発芽に成功したというのだ。そのハスの根分けしたものが町田市の薬師池公園に植えてあり、7月、8月には見事な花を咲かせている。そのように命があれば、それがどんなに古いものでも、そこから成長していく力を持っているのである。

 

 聖書は2千年も前に書かれたものであると、昔話にように言う人がある。確かに聖書は2千年前のものだ。カビが生え、しわもあると思うが、しかし問題はそこに命があるかどうかということである。はっきりしているのは、種に命がなければ、水をやっても、肥料を施しても、そこからは何も成長しないということである。

 

 主イエスが天国を語られるのに、種というものを繰り返し語られたのは、御言葉には命があるのだということであり、このことをしっかり覚えたいと思う。聖書の御言葉には命がある。私たちがそれをしっかり受け止めて行ったならば、ヤコブの手紙121に「み言葉には、あなたがたのたましいを救う力がある」とあるように、私たちの生活を変えてしまうような力が起きてくるのだ。

 

 さて、種である御言葉には命があるということだが、その種をただ眺めていただけでは、そこからなにも起きてこない。主イエスが14節、15節で言われていることは、ただ眺めたり聞き流しているだけではだめで、御言葉を受け取っていく、受け入れていくということが大事であると教えているのではないか。

 

 マタイによる福音書には、「悟る」という言葉がよく出てくるが、マルコによる福音書には、これが「受ける」、「受け入れる」となっている。御言葉を「受け入れる」ことが「悟る」ということである。私たちはそんなことは信じられないとか、そんなことをしていては大変だとか言って、常識によって御言葉を軽く料理してしまう。

 

 しかし、ことは逆で、御言葉によって私たちが料理されるのが、聖書の言う「受け入れる」ということなのである。皆さんは、御言葉によって料理されたことがないだろうか。御言葉によって自分の中にあった価値観、常識、プライド、生き方、考え方がずたずたに料理された経験はないだろうか。逆に励まされたり慰められたり、生きる勇気や元気をいただいたりしたことはないだろうか。御言葉には命があるからこそのことである。

 

これをしたら儲かるのにとか、これをしたら人から喝采を受けるのにと思っても、聖書がそれを禁じているならそれをしないというのが受け入れるということである。そういうふうに受け入れなければ、土の中に受け入れられない種と同じことであって、命を発揮することはできない。種をどんなに観察してもそこから命を見ることはできない。命は受け入れる時に「ああ命があるんだ」ということを見ることが出来る、実感することが出来るのである。 だから聖書の御言葉がどんなに素晴らしいものであるかは、ただ座って観察しているだけではわからないのである。聖書の知識は増えても、私と聖書の関わりを見出すことはできない。受け入れた時、初めて種の持っている命に触れることが出来るのである。それが、23節の「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて悟る人であり」、御言葉には命があるから「百倍、六十倍、三十倍の実を結ぶ」と主イエスは言われるのである。