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我が時は汝の御手にあり

 

2020年11月8日 主日礼拝宣教

 

「我が時は汝の御手にあり」 詩編31編10-17節

 

 詩編31篇の詩は全く追い詰められた詩人がいかにして神の救いを体験し、希望を新しくしたかを歌ったものだ。前半14節まで詩人の激しい苦悩が歌われている。しかしながら、全く窮地に陥り、孤独の極致に達したこの詩人が最後に神を賛美し、勝利と希望の確信を歌い、他をも鼓舞、激励しているのは何故だろうか(22-25)

 

 根本的には神への信頼があると思う。彼は冒頭(2節)において「主よ、御もとに身を寄せます」と言っている。口語訳では「主よ、わたしはあなたに寄り頼みます」と訳されている。「寄り頼む」(ハーサー)という語は文字通りには「逃れる」「隠れ家を求める」という意味であり、それゆえに345節に「砦の岩」「城塞」「大岩」「砦」などの言葉をもって呼びかけているというのもうなずける。

 

 主への信頼、それは詩人の言葉によって説明するならば、彼を窮地より救い、勝利の希望を与えたものは、新共同訳では2節に「恵み」と訳されているが、神の「義」(ツェダカー)であり、6節の「まことの神」の「まこと」(エメス)であり、特に8節、22節にある「慈しみ」(ヘセド)である。

 

 この「慈しみ」は愛情、憐憫、恩恵など様々に訳されるが、要は契約に基づく神の愛をいう。人間は神に対してしばしば裏切り、反逆を企てる。預言者から見るならば旧約の民イスラエルの歴史はヤーウェへの反逆の繰り返しであり、その結果は滅亡であった。しかし神においては裏切りはない。常に変わらない慈しみをもって、その民を愛する。人の愛にはしばしば裏表があり、断続さえも起こるが、神の愛にはそのようなことはない。慈しみは真実によって貫かれた神の愛であり、愛と真実とが一つとなったものである。

 

 しかし以上のことをこの詩人に強く理解させ、悟らせたものは思うに「時」ではないかと思われる。「時」がこの詩人において非常に重要な意義を持っていると思う。彼は言う。「わたしにふさわしい時に、御手をもって」(16)、口語訳では「私の時はあなたの御手にあります」、文語訳では「我が時はすべて汝の御手にあり」と訳されている。

 

 この「我が時」は文語訳では「すべて」とあるように複数形である。この詩人は恐らくこれまで経て来たすべての時、またこれから出会うであろうもろもろの時を「すべて」と表現しているのだ。まさにその時、その時である。彼が生まれた時、成長した時、結婚した時、親しき者と別れた時、病んだ時、これからやがて老衰し、死滅していく時。そこには喜びがあり、悲しみがあり、希望に輝いた時、失望のどん底に落とされた時、苦しんだ時、助けられた時、数え上げれば際限のない、それら「すべて」の時である。

 

 「我が時はすべて汝の御手にあり」、この言葉をはさんで、その前の2-15節はたとえて言えば真っ暗な暗室である。しかし、16節以下は次第に明るくなり、ついには光り輝く真昼の部屋に移されている(24-25節)。この明暗の二つの部屋の間の扉が先ほどの16節の「我が時はすべて汝の御手にあり」であり、新共同訳でいう「わたしにふさわしい時に、御手をもって」である。

 

 そもそもヘブライ語で「時」を表すものがいくつかあるが、そのうち最も重要なものは「エース」と言って、何かに出会う、何かに答えることによって時が定まる、そのような時を表している。だから、この言葉(エース)は時を長さとして量的に捉えず、質として考えていることが分かる。『我と汝』で有名な宗教哲学者マルティン・ブーバーは「時点」と訳している。朝日の昇ることに出会うことによって、朝の時が定まり、夕日の沈むことに出会うことによりよって、夕の時が定まる。そしてヘブライ人にとって最も決定的な時は神の出会う時であった(詩編327参照)

 

 ヨブ記のヨブが、苦悩の中に思い煩っていた時、どこにも希望と慰めを見出し得なかったが、最後に嵐の中からの神の呼びかけを受け、神と出会うことによって再び光明の世界に連れ戻されたことは聖書の時がいかなるものであるかをよく示している。

 

 この詩人はそのような意味において「時」を正しく理解し、それがすべて神の御手にあることを体験的に感得し、それによって彼は暗黒の部屋から光明の部屋に移されることが出来た。

 

 だから彼にとって「時」は運命とか宿命とかではなく、摂理である。神の愛の配慮、慈しみと言ってもいいだろう。それは破れた器のごとき絶望の状態に陥る時にも、なお光をまったく見失わず、希望の回復を忍耐して待ち、やがて勝利の確信にまで導かれていくものであることをこの31編の詩は良く教えている。だから、彼は最後に、「雄々しくあれ、心を強くせよ。主を待ち望む人はすべて」と人々を力を込めて励ますことが出来たのである。「我が時はすべて汝の御手にあり」。神と出会うことによって、神の慈しみ、神の愛を受け取り、生かされていく時でもある。