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すべてのものは神のもの

 

2020年10月11日 主日礼拝宣教

 

「すべてのものは神のもの」 ルカによる福音書112-4

 

 今日もまた主の祈りについて学びたいと思うが、今日はいよいよ主の祈りの最後のところとなる。最後のところとは「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」である。しかし、先ほど読んだルカ福音書11章にはそれがない。同じ内容の記事が載っているマタイ福音書6章にもない。ということは、この文言は後世の者が付け加えたものではないかと言われている。私たちが今、祈っている「主の祈り」は1880年訳と言われているもので、140年前に訳されたもの。では、この最後のところの祈りの内容は何だろうか。それは「頌栄」である。神をあがめ、ほめたたえる言葉。栄光を神に帰す、神の栄光を賛美する言葉である。だから礼拝で祈られるにふさわしい祈りであるということが言える。

 

さて、付け加えられた文言だと先ほど言ったが、今日までずっと祈られているということはそれなりの意味があるのではないだろうか。そのことをマタイ福音書の4章の主イエスが荒れ野でサタンの誘惑を受けた場面から考えてみたいと思う。 

 

 40日間、荒野で断食をしておられた主イエスに、サタンはまず空腹に「パン」という食物、生きるために必要なものをもって誘惑してきた。また奇跡的な力を手にすることで権力への誘いをかけ、さらに世界が自分のものになるのだという財産、経済的な力への誘惑もした。何もパンや財産が悪いのではない。権力もそもそも悪いものではない。しかし私たちの抱える弱さや罪は、それを良いように用いることができなくなっているという現実を自覚していないところにある。

 

 私たちはお金の誘惑に弱いことを認めておく必要がある。力への誘惑、地位、名誉の誘惑もまたそうである。権力の座についた人の汚職や私物化のニュースがたびたび聞こえてくる。また自分の思い通りにしたいという力の欲求が、夫婦関係や親子関係、職場の上下関係、さらに政治の世界にゆがみをもたらすこともあるだろう。今回の政府の学術会議の任命拒否などは露骨で最たるものだ。

 

 主イエスはこれらの力を、サタンから受け取ることを拒否された。その拒否の仕方はというとみ言葉である。サタンの誘惑を退ける武器はみ言葉であった。このことは私たちにサタンの誘惑を退ける方法を教えてくれる。私たちはお金の誘惑に弱いことを認めざるをえない。その誘惑に対抗するには神の言葉をもってする。私は「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」というみ言葉を何度想い起して、その時々の危機を乗り越えてきたことだろうか。み言葉には力があり、知恵がある。

 

権力も国家も繁栄も、神との関係から切り離されて用いられるならば、それらはやすやすとサタンへの礼拝へとつながっていく。良いものであったものが、悪しきものへとゆがめられていくのである。

 

 だからこそ、この祈りでは「国家も、権力も、繁栄のすべての所有は、神さま、あなたのものです。私のものではありません」と告白する。所有をはっきりさせようと告白し、宣言するのである。私たちは自分の手にしているものの一つひとつが、じつは神さまの手の中にあることをこの祈りによって、確認をしているのである。だから、この「国と力と栄えとは限りなくなんじのものなればなり」の祈りは、私たちの神への応答、信仰の告白でもあると言えるだろう。神の栄光を賛美しながら、同時に私たちの信仰の確認をしているということになるだろう。

 

 だから冒頭にこの文言は後世に付け加えられたものだと言ったが、付け加えられたという言い方よりも、神の御業、み言葉に対する私たちの応答の祈り、確認の祈り、信仰告白の祈りであるという方がふさわしいと思う。これからもこの主の祈りをしながら、神の栄光を賛美しながら、併せて私たちの信仰の応答として祈っていこう。