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兄たちを探す

 

2020年9月27日 主日礼拝宣教

 

「兄たちを探す」 創世記 37章12-24節

 

創世記に記されている壮大なドラマ、ヨセフ物語には印象的な場面がいくつかあるが、その一つが今日の聖書箇所、ヨセフが兄弟たちに穴に落とされ、結果的にエジプトに売られた話。

 

その話の中で非常に印象的な一言がある。それは「兄たちを探しているのです」というヨセフの言葉(創世記3716)。父であるイスラエル、ヤコブのことだが、そのヤコブからヨセフは荒野のシケムで羊の群れを飼っている兄たちのところへ行って、様子を見てきて欲しいと頼まれる。出かけたヨセフが野原をさまよっているときに出会った一人の旅人に「何を探しているのかね」と尋ねられた時に答えた言葉である。

 

「何を探しているのかね」と尋ねられて、「兄たちを」というのは印象的である。ヨセフにとって兄たちはどういう存在だったのだろうか。37章の2節に「ヨセフは兄たちのことを父に告げ口をした」とある。また、どの兄たちよりもヨセフは父からかわいがられていた。そのことで兄たちはヨセフを憎んだが、ヨセフはそのようなことにまったく無頓着と言うか能天気な感じである。彼にとってお兄さんたちとはそういう存在でしかなかったのだろう。その兄たちをそれでも父の言いつけだから一生懸命探し続けたというところだろうか。

 

ところで、あなたにとって「兄弟」とは誰だろうか。その問いは「あなたにとって隣人とは誰か」ということになるのではないだろうか。その隣人を探す。そして他人に過ぎない隣人を兄弟姉妹として受け入れ、信頼し、共に生きていく、そのような人間関係の構築が結果として、伝道へとつながっていくのではないだろうか。

 

あの時、ヨセフは兄弟に嫌われ、穴に落とされた。そして結果的に銀20枚で売りとばされた。それでも兄弟といえるのかという劣悪な関係に堕ちていく。しかしヨセフはその後も「兄たちを探しているのです」といって求めつつ生きた。それは、後の兄弟たちとの再会の場面でよくわかる。

 

兄弟姉妹と呼び難い者を兄弟姉妹としていくところに伝道の精神は息づいているように思う。そうするのは、ヘブライ書の211節にあるように、敵であるような私たちを「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」といって私たちを迎え入れてくださった主の愛を受け取っているからである。

 

日本の社会は、ますます同調志向が強くなり、異質な者を排除していくような傾向にある。自分と異質なものを受け容れ、共に生きていこうとする精神に欠けた社会の現実にあって「兄たちを探しているのです」という姿勢は困難を予想させますが、貴重な証しに通じていくはずである。

 

 19世紀末から20世紀にかけて活躍したオーストリアの詩人のリルケに次のような短い詩がある。「いまどこかで泣いている/世界の中でわけもなく泣いている者/その人は/ぼくのことを泣いているのだ」(リルケ「厳粛な時」)。「今どこかで泣いている/世界の中でわけもなく泣いている者」「その人」とはだれだろう。思うに主イエスではないかと私は解釈している。「いまどこかで泣いている」、そう、目には見えないけれども、今も主イエスは私たちのために十字架の上で泣いておられるのだ。この十字架の贖い、十字架に示された主の愛をしっかり受け止めて、神を賛美しつつ、隣人を愛する生活へと押し出されていこう。