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助けて

 

2020年9月6日 主日礼拝宣教

 

「助けて」 マタイによる福音書6章9-13節

 

今まで少しずつ「主の祈り」について学んできたが、今日は「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」のところ。マタイによる福音書の613節では「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」と訳してある。

 

 この祈りは「神さま、試練に合わせないでください」「悪からお助け下さい」という祈りである。「神さま、助けてください」という悲鳴にも似た叫びをあなたの祈りとしなさい、と主イエスは言われているのである。私たちは祈りにおいて、悲鳴をあげてよいのだ。「助けてください、助けて」と叫び、祈っていいのだ。「助けてください」という祈りは、自分の弱さを認めるということ。誘惑にあうとき、試練にあうとき、私は弱くて自分では立てませんと認めること。そこからこの祈りは始まる。

 

 しかし、私たちはなかなかその弱さを認めない。特に信仰とか宗教とかに関わってくると、「信仰を持つなど弱い者がすることだ」という、考えてみれば何の根拠もない偏見を少なからず持っている。かつての私自身もそうだった。10代の頃、いろいろな悩みを抱えて行き詰まっていても、自分で何とかするしかない、克己、己に克つしかない、信仰に頼るなんで露ほどにも考えてみなかった。一方、今度はキリスト者になってからは「信仰を持つなど弱い者がすることだ」と言われると、「いや、信仰とは逃げ場所ではない。信仰とはむしろ弱さに打ち勝つような力強いものだ」と反論したくなる自分がいる。確かに、これも正しい言い方かもしれないが、信仰に逃げ込む弱さを打ち消そうとし、人から弱いと思われることを嫌だと思っているのかもしれない。そのように私たちはなかなか「自分は、こころみにあうと弱くてダメだ」と素直に認めることができない。それこそが人間の弱さだ、弱さを認めない弱さだ、と言えるかもしれない。人間はそのような矛盾したものを持つ存在ともいえるだろう。「自分は神抜きで生きていける、そういう強い人間なのだ」と言い張ることのほうが、実は弱さの中にあるのでは。

 

 この祈りは、自分の弱さを神さまに知っていただく祈りでもある。「悪しき者から助け出してください」の「悪しき者」とは、抽象的な悪全般ではなく、具体的な一つひとつの悪のこと。私たちは、主イエスが再び来て、すべての悪から完全に勝利してくださるまで、世界に満ちている悪意に傷つけられたり、裏切られたり、ぐらりと足もとをすくわれることもある。

 

 さらに、自分の内側の悪の問題も深刻である。私たちは自分の人生を振り返ると、どうしてあんな馬鹿なことをやってしまったんだろう、思わずひどい言葉を口にしたり、やってはいけないことに手を出してしまったり、そんなつもりではなく口にした小さな陰口が、ある人の人生を取り返しのつかない状況に追い込んでしまったり、と後悔することばかり。いずれにしても私たちの弱さが原因で、悪の力のとりこになってしまっている。この自分の弱さをきちんと認めることによって、神に助けを求める祈りの扉が開くのである。

 

 この祈りは、「弱さを持っている私を助けてください」という祈りである。ここには自分の弱さの告白がある。私たちには神さまに自分の弱さを告白しないところがある。「以前は助けていただきましたが、最近ではもう大丈夫です」。あるいは逆に弱さに対して開き直り、「この弱さはどうにもならない」とあきらめ、神さまの前に祈りを差し出すことすらしない。「祈れない弱さ」とはこういうことだ。もし弱さを祈ることができるならば、それは神の強さに変わる。祈れない人は、強くたつことができない。

 

 一方、「罪の告白を聞いてください」と求めてくる人に与えられた信仰の強さを思う。犯した罪を自分の内側で隠したままにしていることのほうが、自分のプライドが守られるだろう。周りからもよいクリスチャンだと思われるかもしれない。しかし、自分一人だとまたその罪に陥ってしまうかもしれない。だから「聞いてください。私と一緒に祈ってください」といえる人は、その試みから守られる唯一の道を知っている人だと思う。

 

 人からどう思われるかよりも、神さまの御心に反した生き方をしたくない、だから助けて欲しい。祈って欲しい。この言葉を言える人は、神の強さの中にすでに歩み始めている人。本当に強い人とは、「助けてください」と言える人だろう。「助けなどいらない。自分のことは自分でやれるんだ」という言葉には、自分の弱さを認めることのできない弱さがある。

 

 今まで何度でも繰り返してきたように、主の祈りは「我ら」と祈る祈りである。試みにあった時に、私たちは一人で弱さを抱えるのではなく、共に抱えてもらい、祈ってもらう必要がある。私たちは祈られなければ、強くあることはできない。伝道者パウロは、「祈ってください」と言える人だった。フィリピの教会やエフェソの教会に、「こういうことが大変だ。祈ってください」と言うことができた。祈られることこそが大切なこと。祈りとは、「祈り合う」ところへと向かう。執り成しの祈りへ向かう。祈り合うところに神の強さ、神の助けが満ち満ちている。