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失望なき祈り

 

2020年8月30日 主日礼拝宣教

 

「失望なき祈り」 ルカによる福音書18章1-8節

 

 今日は祈りについて、改めて教えられたいと思う。特に祈りの姿勢についてである。身体的な姿勢のことではなく、心の姿勢である。

 

 やもめというのは、主イエスがこの教えを語られた頃は、今よりももっと弱い存在だった。聖書の中には、みなし子と並んで、やもめが一番弱い社会的存在であること、それだけ愛の配慮がなされなければならないことが、繰り返し聖書では語られている。そのやもめの一人が、誰かに訴えられている。そのために窮地に陥っている。そこで町の裁判官に訴え出た。ところが、まことに不幸なことに、この裁判官は「神を畏れず人を人とも思わない」裁判官だったのだ。貧しいやもめの訴えなどには、耳を傾ける気持ちなどさらさらなかった。しかし、やもめはへこたれない。二度、三度行き、裁判官に訴えた。それでも耳を傾けてくれない。普通ならもうとっくにあきらめてしまうところだ。しかし、何度でも行って、「どうぞ私を守ってください。それが裁判官としてのあなたの務めではありませんか」と責め立てたのだ。

 

 すると裁判官は、「彼女のために裁判をしてやろう」と言い出した。裁判官は心を変えたのではない。要するに厄介だから、厄介払いをするのに、ここでやもめのためになる裁判をして、この厄介から逃げるより他はないと考えただけだ。こうして、やもめは勝ったのだ。

 

 この話は、分かりやすい話だ。しかし、わかりやすい話だと思っているうちに、とんでもない勘違いをしてしまう危険性がある。いつの間にか誤解して理解したつもりになっているかもしれない。

 

 この話は、主イエスが、私たちが失望しないで祈るようにと、私たちを励ますために語られたもの。祈りを簡単に放り出すなということだ。だからこそ、常に祈るべきなのである。いつも祈りを絶やさないで欲しいと主イエスが願っておられるのだ。そのために、この不義なる裁判官のたとえ話を語られたのだ。そうすると当然のように、神をこの裁判官に置き換えて、ああ、やっぱり神さまも、この裁判官と同じように私たちがしつこく祈らないと耳を傾けてくださらないということなのか、そういう執念深い祈りでないから、実らないうちに放り出すから、祈りが空しいのか、祈りが実を結ばないのか。それならば、このやもめのようにしつこく祈ればよいのか、こういうふうにいつの間にか理解していることがないだろうか。そうすると、神はまるで不義なる神ということになる。

 

 しかし、もちろん主イエスは、少しもそのようなことを言ってはおられない。7節で主イエスは「まして神は」と言われている。不義な裁判官でさえもこうなのだから、まして神のなさり方は、と語られた時、すべての話が、ここで一変してしまうのである。

 

 神は義なる神である。そして、義なる神は、日夜叫び求める選民のために正しい裁きを行ってくださるのだ。私たちの苦しみに目を留め、その嘆きに耳を傾けていてくださるのだ。神は私たちの叫びを知っておられる。しかもこの裁判官と違って、長い間ほっておかれるというようなことはない。主イエスは、神はすばやく裁いてくださると、改めて言われる。これが私の教える、あなたがたの神のなさり方なのだ、わたしをあなたがたのところに遣わしておられる神のなさり方なのだ、と言われるのである。

 

 そうすると今度は、そうか、神さまは私たちの苦しみを知っておられ、嘆きに耳を傾けてくださっているのか。そしてすばやく裁いてくださるというのか。それならば、もう神さままかせにして、あまり祈らなくてもいいのではないか。あるいは祈っても祈らなくても同じではという、まことに自分勝手な思いが出てくる。本当に私たちは自分本位、自分勝手な存在である。

 

 そんな私たちに対して、主イエスは、最後にこう言われる。「人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見出すであろうか」と。「人の子」とは主イエスご自身のこと。主イエスが再び来られる世の終わりの時のことだ。神の決定的な裁きをもたらすために主ご自身が、また来られるのである。その時、主が最も望まれること、それは、信仰によって迎えられること。だが、その本当の信仰が見られるのであろうか、そう言われるのである。

 

これは主イエスの嘆きの言葉であり、明らかに主イエスは、この言葉で、今その言葉を聞いている人々の中に信仰があるのかと尋ねておられるのだ。今すでに地上に信仰を見出すことのできない嘆きを語っておられるのだ。私たちの祈りの中に信仰がないために、祈りが空っぽになっていることを深く悩んでおられるのではないだろうか。私たちは信仰を持たないまま祈ることはないだろうか。私たちは本当に神さまを信頼して祈っているだろうか。そのことが問われているのだ。

 

 さらに私たちは、信仰を持たないまま祈りながら、そのために生まれる祈りの空しさを、それがまるで神さまのせいであるかのように思ってはいないだろうか。身勝手そのものだ。その時に、その私たちの無信仰、不信仰の罪のために、主がどんなに苦しんでおられることか。そこから、主を信じて祈れ、失望しないで祈れと言われるのだ。この主の御心に思いをいたすこと、それがまさに祈りの姿勢が改まる原点であると思う。

 

身勝手な祈りから、主の御心に思いをいたす祈りへと変えられるよう、主の導きを祈ろう。二度と主を悲しませることのないように、また、主の苦しみや悲しみがよくわかるように、主の導きを祈ろう。