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あなたがたといつも共にいる

 

2020年8月23日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 

「あなたがたといつも共にいる」 マタイによる福音書28章16-20節

 

 今日の聖書箇所の場面はガリラヤ。なぜガリラヤかというと、主イエスは生前に弟子たちに「私は復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」(2632)と言われていたから。また、葬られた墓に向かった二人の女性は天使と復活された主イエスに出会い、弟子たちにガリラヤに行くように告げられた(28110)。それを聞いた弟子たちはガリラヤに出かけ、主イエスと出会う。ガリラヤは、ヘブライ語で「ガーリール」、辺境という意味の言葉に由来する地名。当時の中心であるエルサレムから遠く離れた辺境の地であるガリラヤ、そこは主イエスが宣教をはじめられた場所でもあった(4127)。 主イエスは宣教の始まりの地に弟子たちを集められた。そして昇天前の最後の場面で今度は、弟子たちに全世界に行って宣教するように言われた。いわゆる大宣教命令。集められ(招集される)、次に散らされる(派遣される)。私たちも同じ。礼拝へと集められ、次にそれぞれ家庭へ地域へ学校、職場へとへ遣わされる。そしてそこで出会いが与えられ、交わりがあり、その過程の中で証したり、お誘いをしたりする。考えてみればごくごく日常的な生活の中での伝道の働きである。何も特別なことではない。

 

 さて、弟子たちが主と出会う場所は「山」だった。マタイ福音書では山はかつて主イエスが説教された場面(山上の説教)を記している(512)。弟子たちはかつて主イエスが山で語られた教えを想起したことだろう。

 

 ここで弟子たちは「イエスに会い、ひれ伏した」とある(17)。ひれ伏すとは礼拝するということ。「しかし、疑う者もいた」(17)とも記されている。聖書は率直に弟子たちのいいことも悪いことも書き記している。それは弟子だけではなく私たちすべての者に当てはまることだからではないだろうか。だから、私たちは容易に、復活したイエスに出会ったことに疑い迷っている弟子たちのさまを目に浮べることができる。そうだよね、と。

 

ところが、そのような弟子たちになんとイエスは「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」(19)と伝道へと派遣されるのである。大丈夫かいな、そんな軟弱な弟子に命令して?と思う一方で、この言葉が今日の私たちにも向けられていることを知るならば、私たちも思わず尻込みをするのではないだろうか。こんな私が伝道なんて、証しだなんて…。

 

 しかしイエスはさらに言われる。「彼らに父と子と聖霊の名によってバプテスマを授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」(19)。教える?とんでもない。自分にできないことを人に偉そうに教えるなんてとてもできることではない。

 

 なぜ、イエスはそう言われるのだろうか。ポイントは「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(20)である。「私がいつも共にいるから大丈夫」と言ってくださっているのである。いつも共にいてくださると約束してくださるイエスはどんな方だろうか?18節に「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」とはっきり弟子たちに言われている。その方がいつも共にいてくださるというのである。ということは、その伝道の働きは主イエスの働きによってなされていく、ということではないか。

 

 さらにイエスは言われる、「父と子と聖霊の名によって」と。すなわち、「あなたの名によって」、あなたの責任によってそうしなさいとは言われてはいない。父、子、聖霊の三位一体の神によってそうしなさいと言われているのである。責任は神にあるということ。宣教の働き、すなわち教会の働きは神によってなされ、神が責任を取ってくださる働きだということである。私たちはその神に信頼して、従い、示されたことを忠実に行うだけ。結果は神にゆだねればいいのである。私の手柄でも業績でもない。だから傲慢になることもない。すべていつも共にいてくださる神のなせる働きである。私たちはただそのような神に感謝し、神に栄光を帰すだけである。