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キリストに満ちあふれる日々

 

2020年8月16日 主日礼拝宣教

 

「キリストに満ちあふれる日々」ガラテヤの信徒への手紙2章15-21節

 

 今日の聖書箇所はパウロの「信仰義認」といわれている個所である。16節にあるように「イエス・キリストへの信仰によって義とされる」というパウロの信仰理解の中心部分である。そのパウロの信仰のありようが、20節の「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」という言葉で告白されている。

 

 スイスの精神科医であるポール・トゥルニエ博士の来日講演集『生きる意味』(聖文舎、1978)をかつて読んで深い感銘を受けた。トゥルニエ博士は、医学の臨床とキリスト教信仰との深い結びつきから、「人格医学」という分野を提唱した精神科医として有名である。患者を一人の人格者として統合して診ていくという医療方法である。

 

そのトゥルニエ博士の講演の一つに今日の聖書箇所について話されているところがある。トゥルニエ博士は、講演の中で次のように話されている。「人格形成において最も重要な手段は、イダンティフィカシオン、つまり、一つの理想像に自分自身を合わせていくことにあります。ですから、子どもは、自分の親を見習って成長し、少し年が進むと、親以外の人にも目を向けるようになり、知り合った好きな人に憧れたり、俳優に憧れたりして、自分の理想像をまねて、性格を形成していくわけです」と言われている。

 

 確かに、私たちの心の中には、何か優れた存在に自分自身を合一(重ね合わせる、一体化する)させ、自分自身を形成していこうとする強い本性的傾向をもっている。この傾向は、日常のささいなことにもよく見られることである。昔、日活の石原裕次郎の映画を見た男性客がみんな、映画館を出る時、裕次郎をまねて蟹股のようなカッコつけて歩いていたという、本当かウソかは分からないが笑い話のようなことを聞いたことがある。今でも、テレビのドラマを見ていると、ふと、いつの間にか、登場人物の一人に自分を同化させていたり、小説を読んでいると、その主人公や、好きな人物になりきって読んでいることがよくある。特に人格形成に大事な思春期においてはよくあることだ。あこがれ、とでも言っていいだろう。そしてまねるのだ。このように、私たちは、日ごろ、だれかをモデルにして生きている。モデリングという。これは大事なことだ。しかし、私たちのモデルは、あくまでも、有限な人間であって、美点もあれば欠点もあり、その美点ですらも限界は免れないのだ。

 

 そこで、トゥルニエ博士は、このような限界を乗り越え、まったく限界のないモデルを得たいならば、それはただ、キリストの中にしか見出すことはできないと主張するのだ。実際、人間が自分自身を同化できるイメージとして、これ以上優れたイメージが、ほかにあるだろうか。パウロの経験も、まさに、ここにあったのではないかと博士は言う。だから、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と言ったのだと、トゥルニエ博士は言われる。

 

 しかし、ここに一つの大切な点があるとトゥルニエ博士は指摘する。それは「キリストとの自己同一化においては、普通の人間との同一化とは次元の異なる、深い存在領域における存在の同一化が行われる」というのである。それはどういうことかというと、「モデルを手本にする限り、モデルは、あくまで自分の外にとどまります。しかし、キリストをモデルとする場合、モデル自身が、私たちの中に入り込み、そこに住み、そこに生き、存在的にも一体となる」と博士は説明される。主ご自身がわたしたちの中に住んで、生きて働いてくださるというのである。私は黙示録320節を思い出した。「見よ、私は戸口に立って、たたいている。誰か私の声を聞いて戸を開ける者があれば、私は中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、私と共に食事をするであろう」。主自らが戸を叩き、私たちがキリストをモデルにしようと戸を開けたなら、主自身がわたしたちの中に入って来られ、共に食事をする、言い換えれば共に生きてくださる、というのである。

 

 これを私たちの側から言うとどういうことなのだろうか。それは、キリストは私の単なる理想像ではなく、親しい友となってくださっているということである。賛美歌「いつくしみ深き」にあるように「いつくしみ深き 友なるイエスは」である。そしていつも、キリストと個人的な会話を交わすようになるということである。自分の中に感じることは何でも、素直にキリストに語り、キリストの考えを、心の耳で聞くようにするということである。そうする中で、キリストは、私の人生の伴侶となり、私と共に在って、日夜導いてくださるのである。

 

 そのような信仰生活のことをパウロがここで「もはや私が生きているのではなく、キリストこそ私の内に生きておられるのです」と表現(信仰告白)したのだ。これこそキリストに満ちあふれた日々、キリストに、一人一人が結びつくこと、キリストと一体になることである。それは祈りに始まり、祈りに終わる信仰生活でもあるだろう。