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平和をつくり出す人々

 

2020年8月9日 主日礼拝宣教

 

「平和をつくり出す人々」 マタイ福音書5章3-12節

 

 先々週は、最初の人間アダムとエバが神から食べてはいけないと言われた木の実を食べ、神との約束を破ったとき、神はアダムに「あなたはどこにいるのか」(創世記39)と問いかけられたことを話した。主なる神と人との出会いは、この神の問いから始まった。それは、神に背き、身を隠す人間への呼びかけであった。

 

 その呼びかけは、神は罪を犯した、あるがままの姿で立つ人間と向き合い、人間の説明や弁解を無用とし、責任ある応答を求められる方であることを私たちに教える。さらに神は人の罪を受け止めながら、責任ある応答する人を愛され、祝福へと導かれる方でもあることを学んだ。主イエスも「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」と、私たちを祝福の道のパートナーとして招いておられる。これは招きの言葉でもある。

 

 15年以上前に次のような記事を「キリスト新聞」で読んだ。それは韓国釜山の四人の牧師たちが来日し、同胞たちの苦難の現場をたどった、という小さな記事だった。その現場とは、97年前の関東大震災で、日本の軍隊・警察・住民らによって、朝鮮人6千人以上が理由もなく虐殺された現場である。そこで一人の牧師が「関東大震災後、日本の教会ではどんな説教がなされたか。また震災によって教会はどう変わったか」と質問されて、その場に居合わせた者は明快に即答できず、日本のキリスト者として不明を恥じたとあった。この記事を読んで以来、私はこれは他人事ではない。今も問われていることだと思わされている。戦争や紛争ばかりではない。阪神淡路大震災、東日本大震災、福島第一原発事故、熊本地震、そして毎年のように起こる台風、豪雨などによる風水害など、そして今回のコロナウイルス感染などにおいても、私たちは「あなたはどこにいるのか」と問われ続けているのではないか。教会はどこに立つのか、どこに立っているのか、ということである。

 

 自民党政権は、いつでも戦争が出来る状態をつくり出そうと躍起になっている。たとえば、安倍政権の憲法改悪の動き、その眼目は9条改悪。自衛隊を憲法に明記するというもの。最近では、「敵基地攻撃能力」の保有ということまでを言い出した。その中にあっての今日の主の招きである。招きに応えようとすれば、批判や困難や誘惑が迫ってくることもあるだろう。やがて、招きに応えて従うのが辛くなってくると、耳障りのよい御言葉だけを拾って読もうとする。「従う」という恵みを「律法主義だ」「~ねばならない信仰だ」と、批判的な解釈をする人も出てくるだろう。しかし「従う」というのは、決して楽なことや喜びの中で実現するのではない。痛みを伴うことも苦しみを伴うことも、犠牲を強いられるときさえある。しかし、その苦しみのところに、主ご自身が一緒にいて下さるのだ。私たちの苦しみや悲しみを誰よりも分かって下さる十字架の主イエスが片時も離れずおられるのだ。その信仰に立つ、その主への信頼に立つ歩み。イザヤ書4110節にあるように「恐れてはならない。私はあなたと共にいる。驚いてはならない。私はあなたの神である。私はあなたを強くし、あなたを助け、わが勝利の右の手をもって、あなたを支える」と、励まして下さるのである。

 

 「従う」というのは盲信、盲従ではない。洗脳でももちろんない。よく分からないけど、神が言うから従うではない。また、従っていれば楽だとか得をするからという損得勘定でもない。創世記6章のノアの箱舟の箇所に、「ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。」(69)とあり、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」(622)とある。ノアは神が言われるから、何も分からないままに行ったのではない。ノアは神がどういう方であるかよく分かっていた。だから神に信頼をおき、神を礼拝し、神と共に歩んでいたのである。 

 

神の平和(シャローム)を祈り求め、行動する群れでありたいと思う。「あなたはどこにいるのか」との、主の呼びかけに誠実に応えるところから、平和をつくり出す祈りや行動が生まれる。その時、主イエスは、私たちを祝福しながら共に歩んで下る。「平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神の子と呼ばれるであろう」。日本において平和について考えるよい時期であるこの8月に、もう一度、この主イエスの御言葉に耳傾けたいと思う。