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癒しをなさる方キリスト


2020年7月19日 主日礼拝宣教
「癒しをなさる方キリスト」マタイによる福音書8章14-17節
 今日の聖書箇所8章は、三つの癒しの出来事を伝えている。はじめは、「重い皮膚病を患っている人」の癒しである。「イエスが手を差し伸べてその人に触れ、『よろしい。清くなれ』と言われると、たちまち、重い皮膚病は清くなった。」(8:3)とある。二番目は、ある百人隊長の僕で、中風でひどく苦しんでいる。「ただ、ひと言おっしゃって下さい」というその百人隊長の信仰に対して、主イエスは、「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」と言われ、「ちょうどそのとき、僕の病気はいやされた」と記されている(8:5—13)。主は、ある時には、手を伸べ、触りつつ、またある時は、そのみ言葉の力によって、つまり、その御手とみ言葉をもって、癒しをなされたのである。
 今日の聖書箇所は、最後の三つ目の癒しの物語として記されているわけで、そうした癒しをなさる主イエスのことをまとめて表現した言葉だといってよいと思う。そこには、ペテロのしゅうとめの熱を手に触れられて癒し、「悪霊に取りつかれた大勢の者」が「言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた」とある。主イエスの御手、そして特にそのみ言葉には、癒しの力が働いているのである。そして、さらにここで注意すべきことは、17節によると、その癒しが「主の僕」の歌、「苦難の僕」の歌と結び合わされているということである。ここにイザヤ書53章4節の言葉が引用されている。「それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。『彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。』」と。
 苦難の僕の歌は、初代教会が、主イエスの受難と十字架の生涯を理解し、解釈する際に欠くことのできない旧約聖書の預言書の一節として重大視していたものである。その預言に導かれて、教会は、主イエスの御苦しみと特にその十字架が私たちの身代わりのものであり、罪の贖いのための犠牲であると理解した。イザヤ書にはまた、「その打たれた傷によって、わたしたちは癒された」ともある。その罪の贖いのため私たちに代わって苦しむ主イエスの生涯と十字架は、ここでは、癒しと結びつけられている。主のご受難は、私たちの癒しのためだったというのである。
 キリストの福音は、第一義的には「罪の赦し」の福音である。そして、罪の赦しの福音であることによって、それはまた、「病の癒し」の福音でもある。主イエスの御手に触れられ、また主イエスのみ言葉を聞く。そのことは、赦しを受ける経験であり、また癒しを受ける経験なのだ。それはまた、悔い改めの経験であり、同時に健やかさの回復の経験なのだ。
さて、今日、私が注目したいのは、主がその手に触られたということ。また、み言葉によって、主が病む人と関りを持って、つながってくださっているということである。人々は、主につなげられる、あるいはつながることによって、病から癒されたということである。重い皮膚病を病む人は、一切のつながりから断ち切られていたという。自分から断ち切らざるを得なかったともいう。日本でも、かつてハンセン病におかされた多くの人が、生きながら、戸籍から自分を抹消していったといわれる。そうしなければ、自分だけでなく、家族全体が生きていけなかったのである。つながりをまったく断ち切り、喪失するということは、本当の意味で孤独になることである。孤独になるということは、生きる意味を失うということでもある。それは、いわゆる寂しさとは、はるかに別なことである。
 スウェーデン映画でイングマール・ベルイマン監督の『野いちご』(1957年)という名作がある。一人の老医学者が人生のむなしさと孤独に押しつぶされそうとしている中、様々な人との出会いから、最後にかすかな生きる希望を見出していく物語である。この年老いた学者は、若い時から自ら人との関係を断ち切り、というかうわべだけの関係を持ちつつ、常に上から目線の関係性の中で、自己中心に生きてきた。その結果、妻にも息子にも見放され、親しい友人もおらず、年老いて、生きるしかばねのような孤独な暗闇の世界に生きるはめになってしまった。ただ寂しいというのではない。寂しさは、心理の問題で、それは紛らわすことができる。忘れることができる。しかし、孤独は存在的な問題で、生きる意味の喪失の問題である。だから、この老教授は夢にうなされ、様々な忘れられない回想に振り回されて、まさに生きる意味を見失った生けるしかばねだった。そうした中、信仰について熱心に議論する元気な若者たち、息子の連れ合いが妊娠し産むことを決心したこと(息子は出産に反対)を告白されたり、老いた母親との再会で母親の愛情を再確認させられたり、長年世話になっている家政婦の親切さに触れたりするうちに、生きるということの意味を見出していく。要するにつながる、関係性の中で私たちは生きる意味を見出し、喜びも悲しみも共有して生きる存在なのだということがこの映画のテーマのように思う。
 ひるがえって、私たちは、教会があり、家族があり、親しい友人たちもいる。何気ない様々な人間関係の中で生きている。つまりつながりの中で生きている。そしてそのつながりこそ、生きる意味、そして生き甲斐となるのである。たとえ何もないとしても、主イエスがつながってくださっている。そしてそれゆえに、生きる意味と使命が与えられている。それは孤独ではない。癒しは、この主イエスにつながっていただくことによって、人間存在の根本から起こるのである。「彼は、わたしたちの患いを負い、私たちの病を担った」(8:17)と聖書は告白する。主は、その十字架において、わたしたちとつながってくださっているのである。主の受難と十字架こそは、主が選ばれた、主と私たちとの接点である。このことを思うと、主イエスによって癒されるということ、主イエスによって私たちの病を負っていただくということ、このことがなければ、本当の癒しはないのではないかと思うのである。ここに究極の癒しがあるのではないだろうか。
 主イエスをわが主と信ずる信仰に中で、私たちはこの究極的な癒しをすでに何らかの仕方で経験しているのではないだろうか。主イエスの癒しの力は、私たちの信仰の中ですでに働いているからである。それは私たちに生きる希望と力と使命を与えてくださっているのである。