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感謝ととりなしの祈り

 

2020年7月12日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 

「感謝ととりなしの祈り」エフェソの信徒への手紙1章15-23節 

 

 パウロはここで「祈りの度に」(16節)と言っているように、しばしば祈っていた。恐らくパウロの生活にとって、祈りは呼吸における酸素にもたとえられるほど重要なものであったであろう。信仰は祈りである。祈りは呼吸である。祈りをしないと信仰が窒息死してしまう。

 

 さて、一般に祈りのことを祈願と言うように、お祈りでは当たり前のように自分の願いごとばかり願ってしまう。こうして下さい、ああしてくださいと、自分の率直な願いを私たちは何と都合の良いようにいろいろと神さまに訴えている。確かに祈りは何を祈ってもいいわけで、自分の願いを祈ることは別に悪いことではないのだが、自分のことしか祈らないというのはいかがなものか。また、ルカによる福音書1811-12節にある、パリサイ人の祈りは、祈ってはいるのだが、勝手な独り言としか思えない。聖書にはどんな時でも「(口語訳)絶えず祈りと願いをし」(エフェソ618)とあるから、祈りは絶えずしていいのだが、問題は何をどう祈るかではないだろうか。

 

 パウロが「祈りの度に」していることは、「あなたがたのことを思い起し、絶えず感謝して」(16節)いることである。感謝している、だれに?神さまにである。まず神に感謝をささげている。パウロは獄中にあっても、自分がみ言葉を伝えたエフェソ教会の人々のことを気にかけていたが、15節にあるように、今、彼らの情報を手に入れた。そして、気にしていた人のことが分かってうれしいというのではなくて、エフェソの教会の人々の信仰と愛の業、つまり神との関係に生きている人々の様子を聞いて、深く神に感謝している。

 

 私たちも祈る時、まず15節にあるように「あなたがたが主イエスを信じ、すべての聖なる者たちを愛していること」を覚えて、感謝の言葉があふれ出るように高められたいものである。まず感謝。

 

 このパウロの祈りにおいて重要なことは、17節から19節にわたる、とりなしの祈りである。しかし私たちは、それをいつも怠りがちにしている。キリスト者のしなければならない務めはいろいろあると思う。病人を見舞い、弱きを助け、手を使い、足を用いて友を教会に誘うことも大切な務めである。けれど誰でもそれが全部できるというわけにはいかない。賜物の違いもある。特にパウロにように囚われの身になっている時にはなおさらだろう。しかし、どのような場合にも私たちは祈ることが出来る。祈りはキリスト者の武器。

 

 しかしなぜとりなしの祈りが忘れがちになるのだろうか。それは、これが外にあらわれない、人に見られない、したがって人に褒められない、お礼を言われない、そういう点があるからかもしれない。パウロの仲間の一人エパフラスは、目立ちもしない、話題にもならないような人だったが、コロサイ412「彼は、あなたがたが完全な者となり、神の御心をすべて確信しているようにと、いつもあなたがたのために熱心に祈っています」とパウロの報告に記されている。このような祈りが、初代教会には満ちていた。いやこのような祈りがあってこそ、教会が成長したのだと思う。

 

 それは第一に、あなたがたが正しく神を知って欲しいということである。そして神を認めるためには17節「あなたがたに知恵と啓示との霊」が与えられるようにということである。その神は「われらの父なる神」ではなくて「私たちの主イエス・キリストの神」(17節)とある。キリストのとりなしによって、神はわれらの父になるのである(17節)。

 

 そのためには、人間の知恵とか探求心などではなく、つまりここには、神とキリストと聖霊の三位一体の働きによって、神の知恵と啓示が与えられるように祈っている。神ご自身が働いて、私たちの内に神の言葉を理解する深い知識を創造される――この神ご自身の働きを、知恵(真理)の聖霊、啓示の霊という。聖霊によらなければ、私たちは神のみ言葉を正しく理解でない。第一コリント123にあるように「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』と言えないのです」とあるとおりである。

 

 聖霊によって、はじめて私たちは、まことの「神を深く知る」(17節)ことができ、その時はじめて私たちの「心の目」が開かれると言ってもいいだろう(18節)。私たちが神を深く知ることが出来るのは、体の目や学問を通してではなく、キリストと聖霊の働きを通してなのだということをここで教えられる。

 

 私たちはあふれるばかりの感謝と希望をもって、これからの一日一日を、キリストの体なる教会の一員として、かしらなる主キリストに仕えつつ、教会に連なる多くの人々のために祈っていきたいと思う。