· 

神の恵みと平和

 

2020年7月5日 主日礼拝宣教

 

「神の恵みと平和」 エフェソの信徒への手紙1章1-2節 

 

パウロはこの手紙の本文に先立って、まず「挨拶――それは神への祈りでもあるが」を書き記している。それは次のような文章である。「神の御心によってキリスト・イエスの使徒とされたパウロから、エフェソにいる聖なる者たち、キリスト・イエスを信ずる人たちへ。わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(1-2節)。

 

 この挨拶文には「神と主イエス・キリストからの恵みと平和」が書かれている。「恵みと平和」。恵みはギリシア風の挨拶と言われているが、正確に言うとギリシア世界における挨拶は、恵みというよりも、「喜びがあなたにありますように」という意味のようだ。知恵を求め、調和や美を求めるギリシア人が、心を楽しませられる喜びに幸福を感じたからだろう。

 

 もう一つの平和は今でも日常的に使われるイスラエルの挨拶だ。「平和(平安)」はヘブライ語で「シャローム」といい、平和・平安・無事・福祉などの意味がある。それはイスラエルの歴史とも関わっている。古代世界において、イスラエル民族は南の超大国エジプトと北のメソポタミアに興る大帝国の間にあって、絶えず戦乱に悩まされ続けてきた。それはブルドーザーで踏みにじられるような有様で、四方海に囲まれた私たち日本人の想像もできない厳しい状況にいつも置かれていた。今日、なお民族として残されているのが不思議なくらいだ。それ故、彼らの理想は平和(平安)であり、それが救いでもあったのだ。彼らの求める平和は、ただ心の中の平和という内的なものだけではなかった。人間の生のあらゆる領域にわたっての平安状態・福祉状態であって、内的と外的と切り離せない関係のある両者を含んでいた。

 

さらにそれは詩編8510に「(口語訳)義と平和とは互いに口づけし」とあるように、神の義と結びついている平和であった。彼らは真実や義と結びついた平和・平安の追及を祭司や長老の祝祷によっても、繰り返し行っていた(民数記624-26参照)。しかし現実の世界においては自分も含めて、この世の罪に引き裂かれ、この言葉も空しく、繰り返すのが生活の実態であった。ユダヤ人は今日もなお「シャローム」を日常繰り返している。この時、このシャロームにおいて彼らは何を願い、何を期待しているのだろうか。

 

 パウロはこの二つの言葉――「恵みと平安」を手紙の冒頭のあいさつの部分で使っている。しかし彼がこれを使った時、それは全く新しい次元へと引き上げて用いている。彼はまずギリシア人の「喜びあれ、幸あれ」(ギリシア語でカイレー)を用いないで、「恵み」(カリス)を、特に父なる神と主イエス・キリストからくる「恵み」を用いている。神がイエス・キリストにおいて私たちに与えてくださった恵み、それは罪の赦しであり、罪の赦しを分母にその上に分子として載せられているのが数々の恵みである。一方、「平和・平安」はキリストの和解による神と人間との間の交わりの回復、永遠の平和・罪を除き、平和をつくりだす平和である。ヨハネ1427にある「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる」とあるように、キリストの和解による(それは十字架の犠牲なしには成し遂げられないものである)神と人間の間の交わりの回復、永遠の平和・平安である。

 

 パウロは挨拶を送る。彼は神に祈り求める。彼は確信をもって告白する。パウロのこの挨拶、「わたしたちの父である神と主イエス・キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように」(2節)は次のように拡大して読み取ることができるだろう。「父なる神により御子イエス・キリストがあなたがたの真中に在し、あなたがたをご自分に強く結び付け、神の恵みと平安があなたがたの全人格をしっかり捉えてくださるように。罪赦され、新たにつくりかえられつつある者として、神に感謝し、神に栄光を帰すると共に、人々の中にこの恵みと平和を証しし、持ち運ぶように」。

 以上のように解釈し、理解するならば、神のご意思を先頭に立てて生きる者、つねに神を見上げて生きる者は、神の恵みと平和を感謝しつつ、応答し(それが賛美であり、奉仕であり、献金としてなされていく)、神のみ旨を喜ばせることに心を用い、生活すべきなのだという勧めでもあるだろうろう。