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愛することは向き合うこと

 

2020年6月14日 主日礼拝宣教

 

「愛することは向き合うこと」 マタイによる福音書22章34-40節

 

 今回のコロナウイルス感染予防対策の中で、ようやく緊急事態宣言の解除がなされた。そしてこれからは「新しい生活様式」で過ごしましょうみたいなことが政府から言われだした。「新しい生活様式」ってなんだ、と思って新聞を読んでみると実に具体的なことがいくつも書かれていた。その中で「食事は横並びでおしゃべりは控えめに」とあった。なんでそんなことまでいちいち国が個人の生活のあり方まで口だしするのか、と腹が立った。これが、今は非常時だから臨時でこのように生活していきましょうならまだわかる。それがこれからは「新しい生活様式」で生活してくださいと言われても、では、ワクチンや治療薬が出来て、このコロナの騒ぎが収束したらどうするの。やはり食事は横並びでおしゃべりは控えめに、ですかとちゃちを入れたくなる。というのは、実はこの「食事は横並びで」というのは、本当はもっと人間の生き方の本質にかかわる事柄なのだということに無頓着な無神経で無責任な、私に言わせれば「人間をやめろ」といっているようなものだと考えるからだ。

 

 「食事は横並びで」と聞いて、すぐ思い出したのが、映画「家族ゲーム」のシーンである。この映画は37年前の作品で、伊丹十三が父親役、由紀さおりが母親役の家庭の物語である。そこに松田優作が息子の家庭教師役として登場する。そしてその家族が食事をする時、皆、横並びで食べるという変な家族なのだ。そう、家族が向き合わないのだ。会話はある。あるがそれぞれが人格的に向き合わない。バラバラ。それは父親が父親の役割を放棄し母親に押し付ける、母親は母親でその役割を放棄しそれを家庭教師に押し付ける、という展開になっていく。外から見ればごく普通の家族に見えるが、実情はいわゆる仮面家族。当時は家庭内離婚とか、家庭内別居とか言われ始めた頃。その役割を演じているだけで、それぞれの役割を本当に生きているのではない。家族ごっこをしているだけなので「家族ゲーム」という題名が付いているのだろう。その象徴的なシーンが、皆で横並びで食事をしている場面である。

 

私は前からこの映画のこのシーンは先ほど言った意味で理解し、映画史に残る名場面だと思っていた。しかし今回、改めてDVDで観て、新しい発見をした。あの食卓のシーンは実はあの有名なレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」の絵画と同じ構図になっていることに気づいたのだ。いわゆるパクリ。それで合点がいった。「家族ゲーム」での食卓は「最後の晩餐」をモチーフにしていたのだ。聖書に書かれている最後の晩餐は、一人の弟子の裏切りが話題に上るが、その前後の展開を見ると、裏切りがユダだけではなく、弟子たちすべてがイエスを信じて従っているようには見えるが、イエスが弟子たちに「死と復活の予告」を三度もした時も、そのことが理解できないばかりか、ペテロなどは「とんでもないことです」と言っていさめ始めたとマタイ福音書は記している。そして、イエスが十字架にかけられるときには皆、逃げていった。裏切ったのだ。弟子たちは、本当の意味でイエスと向き合ってはいなかったのだ。人間的な弱さゆえに向き合えなかったという方が正確だろう。人間的な弱さとは、究極的には自己中心、エゴ、自己保身、自分可愛さからくるものではないか。だからダ・ヴインチは「最後の晩餐」で、イエスと向き合わない弟子たちという構図にしたのではないかというのが今回の私の新しく発見した見解。他の画家の「最後の晩餐」の絵も見たが、それらはどれもちゃんとイエスを中心に向き合って食事をしている構図である。あのような横並びの構図はダ・ヴインチだけ。彼がそこまで意識していたかどうかは分からないが。鑑賞者としての見方の一つとして。

 

 イエスはだれとでも正面から向き合ってくださった。今日の場面でも、律法学者は「試そうとして尋ね」るが、イエスはそれにもストレートに答えられる。そのことによって、イエスは傷つき、中傷され、最後にはユダヤ人から恨まれて十字架へと押しやられてしまうが、そこからイエスは逃げなかった。十字架はきちんと向き合おうとされた結果である。それが愛の形ではないかと今回、思わされたのである。

 

 そのイエスの答えが今日の個所に書いてある黄金律と言われる神と隣人を愛するという教えである。そこから教えられることは、愛することは神に対して逃げない、きちんと向き合うということ。隣人に対しても向き合って生きていくということ、だということである。それは簡単なことではなく、時には傷つき、つまずき、貧乏くじを引くこともあるだろうが、それ以上に神からの多くの恵みが先行してあることもまた事実である。

 

 私たちが「愛する」ことができるのは、神の愛の恵みへの応答としてである。神の愛を受け入れ、その感謝として励む愛の働き。与えられた賜物を生かしつつ精いっぱい愛する生活に励みたい。