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神による神への犠牲

 

2020年5月24日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 

「神による神への犠牲」 ヘブライ人への手紙9章11ー15節

 

 「犠牲」という言葉を辞書で調べると、ある目的のために、その人の生命やかけがえのないものを提供すること、とある。用例では「独立運動の犠牲になる」「仕事を犠牲にする」など。また、不測の事故・災難による禍を意味することもある。いずれにしても今日では、「犠牲(いけにえ)」という言葉は日常あまり使われてないのではないか。使われるとしても、不測の事故・災難による禍などのように、その人自身の責任でないのに禍を受ける場合で、否定的な意味合いで用いられることが多く、積極的な意味あいで使われることはほとんどないように思う。だから、「犠牲」という言葉は、現在では宗教的な次元でも、神との関係において理解されていないし、それが持っている積極的な意味も理解されていないように思う。

 

しかし人間の生き方には、「犠牲」なしには成り立たないところがある。家庭生活でも職場でも、福祉や医療や教育の現場でも、権利の主張だけでは成立しない部分がある。今回のコロナ禍においても、医療従事者をはじめ様々な職種の方々の多大なる犠牲の上に、何とか収束に向かっているという事実がある。「犠牲」という言葉を死語の中から救い出し、積極的な意味合いで理解する必要があるように思う。

 

 特にイエス・キリストの十字架の理解には、この「犠牲」という言葉は不可欠である。「犠牲」としての十字架は、「キリストの血」を強調している。なぜなら「血」は「いのち」を象徴しているからである。そしてそれは、「大祭司キリスト」(1125)という興味深いキリスト理解と結び付いている。「大祭司」は、神と人間の間の仲保者、取り次ぐ者として働く。さらにその「犠牲」は、「ただ一度」(122628)のこととも言われている。だから、イエス・キリストの十字架が「犠牲(いけにえ)」だということは、主イエスご自身が「大祭司」(仲保者)として、「ご自身の血」(いのち)を「祭壇」に注ぎ、ささげられたということである。それはもはや二度と繰り返すことが出来ない。それはもはや繰り返す必要のない仕方で、ただ一度にして「永遠の贖い」(12)を成し遂げられるのである。

 

 「犠牲」は祭壇において、神にささげられる。それは「神との和解」のため。真実の「生きた礼拝」が出来るようになるため。そのためには「罪が取り去られ」なければならない。「罪」は人間を神から引き裂く。この「罪」が「取り去られる」必要がある。そのための「犠牲」である。現代人に「犠牲」という言葉があまりぴんとこないのは、この「罪によって神から引き離される」ということの深刻さがぴんと来てないということだろうと思う。人間の本当の問題は、神との関係性、神との交わりの問題なのだ。神から引き離されていることなのだ。神に背を向けている。神から隠れる。神なしで生きる、神の不在。しかしそれがなかなかぴんとこない。「神なしで生きられる」「信仰なんてなくても幸せ」。しかし、ぴんとこようとこなかろうと、神から離れていること、神に背を向けていることこそが、人間と社会の根本問題なのだと聖書は一貫して主張している。いわゆる「原罪」である。

 

 さらに、14節に「永遠の霊によってご自身を傷のないものとして神にささげられたキリストの血」とある。キリストの「犠牲」は「永遠の霊」の働きだというのだ。ということは、それは神ご自身の御業であるということだ。「大祭司キリスト」が神に「ご自身の血」をささげる。そのことは「永遠の霊」によったのだ。主イエスの十字架は「神による神の十字架」なのだ。「神による神への犠牲」であるということ。キリストの「犠牲」は「罪を取り去る」ため。というのは22節「血を流すことなしには罪の赦しはあり得ない」からである。しかし、それは神による神への犠牲だったのだ。そこに「ひとたびにしてまったき犠牲」と言われる理由がある。「永遠の贖い」と言われる理由もある。神によるのでなければ、罪の赦しはあり得なかった。私たち自身が罪人だからである。しかし、「一度にしてまったき犠牲」がある。だからこそ、今日も私たちはそのキリストの犠牲のゆえに罪を取り去られ、礼拝の恵みにあずかることが出来るのである。私たちのどの礼拝も、どの説教も、どのバプテスマも、どの主の晩餐も、どの祈りも、この主の「ひとたびにしてまったき犠牲」によらなければ成り立たないのだ。

 

 このことは私たちの信仰生活に決定的である。私たちの人生はどこまでいっても主の十字架によるほかない。「主の十字架によって御国に入るまで」、日々主の十字架によるのである。御国に入っても、その根底には主の十字架がある。主の犠牲によって真の礼拝があるのだから。だから、そのことを覚え、感謝し、献身の思いを持って自分の人生を歩んでいきたいと思う。