キリストにおいて一つ

 

2020年5月17日 主日礼拝宣教

 

「キリストにおいて一つ」マタイによる福音書16章13ー20節 

 

人間はいろいろな問題に悩まされる。悩みのない人なんかいない。悩みの中で生きていると言っていい。その悩みの中で疑問や迷いを抱きつつ、問いを持つ。しかし今朝、聖書を読むと、人間は問うだけではなく、問いかけられてもいるというのだ。誰に問いかけられているか。それは神が私たちに問われる、というのだ。主イエスを通して神が私たちに問うているのだ。そしてこの神の問いかけに答えることが、人間のいろいろな悩みや問題の答えになるのだ、というのである。神のその問いかけとは、「それでは、あなたがたは私を何者だと言うのか」である。主イエスはそう問いかけられた。ここに実は人間にとっての「最大の問いかけ」があるといってよい。聖書はその問いかけのために書かれているといってよいだろう。

 

 生きていくうえで、人生には確かにいろいろな問題がある。トラブルがあり、悩ませられることが様々起こる。そして私たちは自分を見失い、進むべき方向を失い、他者ともうまくやっていけなくなったりもする。しかしその時にも、この最大の問いかけ、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」という問いかけを聞き、この問いかけに答えながら生きるとき、人間は真実に生きることが出来ることを聖書は教える。

 

 主イエスの問いに弟子のシモンは答えた。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」。そう答えたシモンを主イエスは「岩」だ、ペテロだと叫んで、「その上に私の教会を建てる」と言われた。今朝、皆さんはその教会の礼拝に集まって来られた。それは、実は「岩の上」に来たのである。教会はその岩の上に立っている。それはまたどんな問題や悩みの中にあっても私たちの人生を真実に生きることの出来る「岩」である。その岩とは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」という、主イエスに対する信仰告白である。これが教会の土台であり、また私たちの人生の土台なのだ。

 

 では一体、教会とはどんな群れだろうか。それはどんな時にもこの主の問いかけとシモン・ペテロの答えが生きて力を発揮しているところである。主イエスに対する信仰を告白する群れである。だから、この信仰告白を見失った時、この問いを「最大の問い」とせず、またあの答えを失ったとき、つまり世の中にはもっと深刻な問いがあると考えたり、もっと別の答えがあると思ったとき、教会はその命を失い、力を失う。教会が教会でなくなる時である。逆に、これこそ「最大の問い」とし、それに対する真実な答えをする時、教会はどんな時にも力を発揮する。主イエスは言われた、「私の教会を建てる」。教会(エクレシア)という言葉は、呼び集められた者の集会、あるいは群れ、という意味。主イエスは弟子たちをご自分の周りに呼び集められた。十二人の弟子を選んだということは、神の民であるイスラエル十二部族を象徴していて、新しい神の民(教会)が建てられたのだ。

 

しかし、私たちは罪によって自分自身失われた人間。また、罪によって他者を失う人間である。自己中心のあまり、愛することができない人間である。新しい神の民としてではあるが、しょせん呼び集められた人間の群れ(教会)である。その教会が罪と死に打ち勝つところと、どうして言えるのだろうか。天の国に通ずるとどうして言えるのだろうか。それは「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」、この主への信仰告白によって可能にされる外はないのである。

 

 「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする時、私たちはそのメシアの民とされる。「あなたはメシア(キリスト)」、そうお答えする中で、私たちは罪を赦され、愛の破れを癒される。死から生き返らされる。そうお答えする中で、私たちは真のクリスチャンにされていく。キリストに結ばれ、死と罪から解放され、天の国へと通じる存在にされていく。私たちもこの朝、答えようではないか。「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子」と、そう答えることが可能である。天の父がそれを可能にしてくださるのである(17)。神は私たちがそう答えることを喜んでくださる。

 

 逗子第一教会は今までもそうであったように、これからも「あなたはメシア(キリスト)、生ける神の子です」と大胆に信仰告白していく群れとして、祈りをあわせ、キリストにあって一つになって歩みを進めてきたいと思う。礼拝とはまさに、毎週毎週、繰り返し、この信仰告白をする場でありその時でもある。そのような礼拝を大事にしていこう。生きる原点、生きる土台である。