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忍耐と希望

 

2020年5月10日 主日礼拝宣教

 

「忍耐と希望」 ヘブライ人への手紙6章13~20節

 

信仰は量ではなく質である、とよく言われる。信仰生活の長い短いではなく、また、大きい小さいでもない。主イエスが「からし種一粒の信仰があればいいのだ」(マルコ431)と言われたその真意は、たとえ小さくともその中身の問題、信仰そのものの問題だということだろう。

 

クリスチャンでありながら、いつまでたっても信仰の確信に立てない、信仰を得ていないと思っている人は意外と多いのに驚く。確かに礼拝に出席し、奉仕をしたり、キリスト教のいいところにふれているかもしれないのだけれど、なぜか喜びがない、感謝がない、確信が持てない、というのである。それはその人が信仰の真実にふれていないからである。神やキリストとの交わりを忘れ、人と人との交わりだけをしているからである。確かに教会に行くと大勢のいろいろな人たちがいて魅力的、いろいろ楽しいこともあって、それはそれなりに充実しているのだが、そこで終わってしまっている。神との交わりが少ないか、していないのだ。神と正面から向き合っていないのだ。それでは、神と正面から向き合う、あるいは神と交わるとはどんなことか。それは祈りとみ言葉を受け入れていくことである。日常生活の中で祈りがあり、み言葉が信仰の血となり肉となるように、毎日しっかり食べ、味わうことである。そして、いつも謙虚に聖霊によって十字架の恵みにあずかりつつ、「完成を目ざして進む(新共同訳:成熟を目指して進む)」ことが大事である(へブル6:-2)

 

信仰を完成する(成熟する)というのは、全うする(成長する)ということに通じる。全うするため、成長するためには、忍耐こそ必要であると聖書はいう。ヘブライ人への手紙のテーマの一つは忍耐であると言われている。この6章後半も、忍耐を激励している。忍耐というのはただ我慢するということではない。必ず来るものを待つということである。15節に「こうして、アブラハムは、根気よく待って、約束のものを得たのです」とある通り。福音とは神の国の到来を知らせるものである。主イエスは宣教の第一声で「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ115)と言われた。その到来と知らせとの間が忍耐である。だから忍耐とは希望と結びついているもので、希望のない忍耐は聖書でいうところの忍耐ではない。ロマ書に「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ロマ書43-4)ともある。

 

聖書の忍耐とは希望を持って待ち望むことであり、み言葉に従って待ち望むことである。そこに祈りも生まれる。それが私たちの信仰生活を全うさせる力であり、完成へと進めるものである(へブル118)。この服従の忍耐を続ける時、私たちは神の国に入ることが許され、神と相対して、「神が人と共に住み、人は神の民となり、……」(黙示録21:3)という世界に生かされるのである。信仰は見えざる神への信仰と未知の将来への確信である(へブル111)。その中に当然忍耐が含まれる。そして、約束の成就を受けるのである(へブル112)。真の信仰者は目標を目指して努力すること、忍耐することが求められている。そこに希望があるからできる。