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神の愛の奥深さ

 

2020年5月3日 主日礼拝宣教

 

「神の愛の奥深さ」 コリントの信徒への手紙一 4章1~5節

 

4章ではキリスト者のあり方が厳しく求められている。神に忠実であれ、ということだ。忠実であるとは、ただ言われたことを実行することではない。軍隊のように右向け右と言われたら、何も考えずに右を向き続ける兵士たち。これを忠実とは言わない。思考停止させられているだけの隷属者。また、洗脳されて、それしか考えられなくなって、同じことしか言わない、しない者とも違う。これも一種の思考停止状態。それに対して、パウロの言う「忠実である」ということは、そこに秘められた意味、目的を正しくくみ取り、それを生かしていくことである。考えるということが大事。

 

マタイ福音書25章のタラントの譬えがそれである。5タラント、2タラントを預けられた僕は、考える。そしてそのお金を働かせて増やしていった。なぜ主人が自分にタラントを預けていったかを考えたからである。これは商売をせよと言う主人の心を見抜いて彼らはそれを働かせたのである。ところが1タラントの僕の場合、何のためかを考えもせず地中に埋めておくだけであった。思考停止。彼は使い込みなどの不正はせずに、元金はちゃんと返している。それなのに「悪い怠惰な僕よ」としかられる。それは主人の秘められた意志をくみ取らなかったからである。何にも考えず、工夫もせず、ただ土に埋めておく。5タラント、2タラントの僕が考え、主の思いを見抜いたにもかかわらず。

 

 今日私たちがクリスチャンであるのも、信仰というタラント、賜物を神から預けられた、与えられたからである。それをただ自分の中に隠しておいて、私はクリスチャンとして一生を過ごしたといっても、また、だれ一人にも伝道しないままで礼拝出席をしたというだけでは、本当の忠実なキリスト者とはいえないだろう。今の社会の中で、家族の中で、学校で、職場で、私がクリスチャンにされたのはどんな意味があるのか。神があの人ではなく、この私に信仰をお与えになったのは、私が選ばれたのはどうしてなのかを考え、求めていくことが、本当の忠実なのではないだろうか。そこにどんな意味、使命が私に与えられているかを考え、実行していくことこそ、忠実であることではないか。

 

 パウロはさらに5節で「先走って何も裁いてはいけません」と、人間の心中に巣くっているものを語る。私たちは人を裁くことが好きである。「あの人はどうもおかしい」と言い、自分のおかしさを棚に上げ、自分を正しい者と思うことが楽しいからか。パウロは裁くことは神がなさることだと言う。しかし神は人間のようには裁かれない。神は私たちを愛され忍耐し続けられるからである。神がすぐ裁かれないのは、神の愛がどんなに深いかを示している。神があっさりと裁かれるのならともかく、悪い者が平気で大手を振って生きている現状を見ると、つい私たちの裁きが先立つのであるが、神は一人も滅びることを望まれず、悔い改めて生きることを望まれるのである。裁きの遅さは、それだけ神が忍耐を示しておられるのである。「愛は忍耐強い」(第一コリント13章)。

 

 そのことをパウロは5節の後半で「主は闇の中の隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます。そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」という、思いがけないというか、驚くような言い方をしている。その時、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであればよくわかる。けれども、そうではなくて、「おほめにあずかる」というのである。一方、人間は人の罪悪を見出した時、まるでその人間の正体をつかんだかのように思う。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮する。しかし、神が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではない。そうではなくて、むしろ人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを神は見られる、というのである。人間の汚濁のその向こうにあるわずかな良い志を見落とされはしない。そこのところで評価してくださる、というのである。

 

 むろん、神が私たちを総体として見れば、とても正しいとは言えないだろう。捨てられるべき罪人にすぎない。しかし、主イエスはそのような人間を十字架において贖ってくださったのである。自ら苦難の道をその人間のために歩んでくださったのである。そこに神の愛がある。人間から見ると理解しがたいものがあるだろう。主イエスは私たちの中の否定されるべきものをもはやご覧にならないのである。汚れた雑巾のように、私たちの中の、わずかの良い志を見ていてくださるのである。汚れた手の中の小さな業を主は決して見失われないのである。これが神の私たちに対する意思、愛である。ある意味で神の愛は一方的で、無条件の愛と言えるだろう。神の愛のなんと奥深いことだろうか。

 

 そのようなことを思わされるとき、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられない。けれども、私たちはこのことを知っている。「主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを」(一コリント1558)。忠実に、神さまから与えられたタラント、賜物を生かして、自分に与えられた、それぞれの働き、使命にこれからも励んでいきたい。