· 

感謝が先立つ祈り

 

2020年4月26日 主日礼拝宣教

 

「感謝が先立つ祈り」フィリピの信徒への手紙4章6~7節   

 

 昔、ある本に「人はなぜ祈るのか」ということを問いにしても意味がないほどに、人間にとって祈りは本質的な事実です、と書かれていたのを読んだことがある。確かに人間は太古の昔から、荒れ狂う自然や疫病の猛威におびえ、ひたすら祈った。考古学で発見された壁画にもその姿が描かれている。科学や医学の発達が多くの不安を克服した現代においても、人は祈ることをやめようとしない。砂漠の中で、雪山の頂で、そして大都会で、あらゆる時代に、あらゆる文化圏で、人は祈り続けている。それは神が人間の心に永遠への思いを植えつけられた(コヘレト311)からかもしれない。人間は自らの罪深さ・弱さ・限界を思い知るたびに、本能とも呼べるほど自発的に神を求めて祈る。

 

 クリスチャンにとって、祈りは日常的な営み。朝起きて祈り、食事を前に祈り、と事あるごとに祈る。しかし、それは常に学び深めるべき修練でもある。これほど日常的であり、奥が深い営みは他にはないといっても過言ではない。私たちにとって、祈りは生ける神とつながる恵みの手段であり、人生の戦いの武器であり、憩いの隠れ家であり、霊的な呼吸なのだ。

 

 祈りの問いは、常に「なぜ祈るのか」ではなく、「いかにして祈るのか」である。だれに向かって、どのように祈ればよいのか、それが私たちの問いであり、それに対して主イエスは「主の祈り」を教えてくださったのだ(マタイ69-13)

 

 戦後のクリスチャン作家佐古純一郎は『祈る人』の中で、「神を信じるから祈るのではありません。祈るということ、そのことが神を信じるということなのです」と書いている。祈りと信仰は表裏一体なのだ。祈りは霊的な呼吸だから、祈らないと信仰が死んでしまう。「信じて祈る」のであり、「信じないで祈る」ことはない。「祈りの霊を注がれた」(ゼカリヤ1210)私たちは恵みとして感謝して絶えず祈る。

 

さて、その祈りだが、パウロはフィリピの信徒への手紙4章で、「感謝が先立つ祈り」を勧めている。パウロは6節で、何も思いわずらうことはないではないか。あなたがたは祈ることが出来るではないか。思い煩いを振り切ってこそ、初めてなし得るかと思われる祈りを勧めている。そして、そのような祈りは、事ごとに感謝を持って、祈りと願いとをささげればよいのだというのだ。様々な祈願というのは、常識ではそれが満たされて初めて感謝することになるが、ここでは感謝が先立つ祈りこそ、私たちに深い、人の知恵では測ることの出来ないほどの平安が与えられ、祈る私たちの心を守るのだとパウロは言っている。

 

 しかし、私たちの生活には、感謝することが出来ないほどにつらいことがあり、悲しいことがあり、困難なことが多くある。なのにパウロは、いつも感謝するようにと勧めているが、それは無理しても感謝しなさいといっているのではない。私たちが、いつも、何にも先立って感謝するのは、その理由があるからだ。

 

 それは、私たちが既に光の子、昼の子とされ、夜の者、闇に属する者ではなくなっているからである。恵みの先行である。その根拠として、パウロは、主イエス・キリストの死について語る。主が死んで下さったのは、私たちが覚めていても、眠っていても、いつも主と共にいることが出来るようにして下さるためであるというのである。生きている時にも、死ぬ時にも、いつも主が共にいて下さる、この主が共にいて下さるということこそ、私たちの救いの現実であるとパウロは言う。それをパウロはロマ書5:1で「私たちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」と告白している。主が共にいて下さるからこそ、いつも平安であり、死に直面しても平安なのだ、と言うのである。

 

 私たちの人生には、思わず感謝の叫びが出るようなこともある。しかしまた、私たちを不安にさせ、恐れさせるようなこと、苦しめ、悲しませることも起こる。心は絶えず波のように揺れ動いている。しかし、そのような時にも、ちょうど海の表面は波立って揺れ動いていても、海の深いところでは静かであるように、私たちの心の深いところには揺るがない平安がある。いつ、どんなところにおいても、主が共にいて下さるからである。これこそ感謝すべき第一のことであり、感謝することによって、私たちはこのことを繰り返し、神のみ前で承認する。繰り返し新しく、この信仰の事実に立ち返る。そこから祈りが始まる。そこからどんなことでも祈れる祈りが始まる。だからこそ、感謝がなければ祈りは始まらず、祈りは続かない。感謝をもって祈り、感謝の祈りで終わる信仰を大切にしたい。