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痛みの共感から始まる

 

2020年4月19日 主日礼拝宣教

 

「痛みの共感から始まる」 マタイによる福音書9章35~38節

 

 救いの業の完成者であるイエス・キリストは、人々の苦しみと痛みへの共感から、本格的な宣教活動に入られた。主イエスは貧しく、そして疲れ果てた群衆といつも共におられた。それゆえにファリサイ派の人々や律法学者たち、正業について規則正しい生活を送る敬虔なユダヤ人たちからは軽蔑と怒りと非難の視線を受け続けていた。しかし、疲れ果てた群衆と共にいることによって、彼らがいかに「弱り果て、打ちひしがれているか」(936)をご自分の目と肌で感じ取り、胃が痛くなるほどの共感を覚えられたのだ。「深く憐れまれた」(936)と訳されているが、岩波訳では「はらわたがちぎれる想いに駆られた」と訳されている。「断腸の想い」である。そこで主イエスは12人の弟子を選び、ご自分の協力者として彼らを派遣する。やむにやまれぬ内からの突き上げとして宣教活動を開始されたのである。それは37節の「収穫は多いが、働き手が少ない。……」という主イエスの叫びにも近い呼びかけに表れているだろう。主イエスは、苦しむ民と共におられ、その痛みをご自分のものとされることを身をもって私たちに示されている。

 

 私たちにとっても苦しむ人々の痛みの共感こそ、福音宣教の力ではないだろうか。痛みの共感があったとき初めて、仕事だからとか、決まりだからとか、あるいはタテマエとしてではなく、本気で主のみ業に協力したいという思いに駆られるのではないだろうか。それは神と主イエス・キリストが抱いておられる痛みの共感に参与することになるのだ。その意味で、痛みの共感は恵みでもある。この恵みは、苦しみと痛みのさなかにある人々と立場を共にすることなしには、決して与えられることはないだろう。

 

 ある本の中で、次のようなことが紹介されていた。多分、アメリカでの話だろう。ある宣教師の奥様がご主人を突然の交通事故で亡くすということが起こった。しかし、残念ながら、一番慰めにならなかったのが教会のクリスチャンたちの言葉だったと書かれていた。それは、「ご主人の出来事は、すべて神様の御手の中にあるのだから悲しまないで」とか、「あなたのご主人がこういうかたちになったのは、あなたのお子さんが主に立ち返るためだった」というもので、この方をとても傷つけたそうだ。

 

 では、この宣教師夫人に対して一番の励ましになったのは誰だったのかというと、残念ながら、教会のクリスチャンでなくて、近所の八百屋のおじさんだったそうだ。ある日、袋いっぱいの野菜や果物を持ってきて、目に涙をいっぱいためながら、「こんなことが起こったら、奥さんもおちおち外出する気になんかなれないでしょう。たいしたことはできないけれど、家にあるもの持ってきたからこれでも食べなよ」と言って帰っていった、というのである。

 

 また、次のような話も書いてあった。長い間、結婚生活で苦しんでおられた方が、その悩みをカウンセラーに打ち明けた。ところが、そのカウンセラーは、「ご主人様にも、いろいろな言い分があるのでは……」と逆に諭すように話してしまったのだ。その方は、カウンセラーに「出て行ってください!」と叫んで、ひとりで部屋に閉じこもってしまわれた。ずいぶん後で彼女は、「『辛かったですね』のひとことだけで、私は良かったの」と言われたそうである。

 

 私はこれらの話を読んで、本当に共感する、その状態を受け入れて共にある、共にいることの大切さ、素晴らしさを覚えると共に、難しさも教えられた。確かにそれは難しい面もあるが、しかし、まるっきりできないことでもなさそうだ。大それたことを考えなくても、共にいるだけでもいい。一緒に飯を食べるだけでもいい。私たちの周りには、実に多くの悲しみや苦しみの中にある人々、癒されず慰めを求めている人々、さびしい思いをしている人々が大勢おられる。共にいる、共に歩むことなら出来そうだ。いや、すでに行っている。礼拝は共に神の前で賛美し、祈り、み言葉をいただく。祈祷会は共に祈る。教会学校は共に学び分かち合う。月一回の愛餐会は共に食事をし、楽しい時を過ごす。

 

どれも共にいる、共に歩む営み。それが教会の中だけにとどまらず、地域の方々と共に歩む活動へと広がっていけるといいなと思う。いや、地域に開かれた教会とか、町の教会とか言うならば、もっと積極的に地域の方々とつながっていくような、共にいる、共に歩む活動を教会はしていくべきではないか。地域に仕える、それは隣人に仕えることであり、隣人を愛する実践でもある。そのためにはそこへ降っていく、共に悲しみ、共に涙を流し、ともに祈り、そしてそこで何をなすべきかを知らされていく。その知らされたことをできるところから始めていけばいいのではないか。痛みの共感から始まる。そのためにも共にいる。そこに主もおられるだろう。