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そこで私に会う

 

2020年4月12日 イースター礼拝宣教

「そこで私に会う」 マタイによる福音書28章1~10節

 主イエスが十字架に息絶えられた時、すべては終わったかのように思われた。まさに暗黒が世を覆ったのだ。すべてを捨てて従った弟子たちにとっては、前途に不安のみがつのる絶望の暗闇であったに違いない。しかし、暗黒を引き裂くように朝の光が射し込む時、すべてが変えられるように、週の初めの朝早く墓に急いだ女性たちに、「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6)という言葉が告げられる。新しい時が始まったのだ。これが復活の出来事。復活の出来事は天使によって告げられた。それは神からの宣言であることを表している。だから、私たち人間がその出来事を証明したり理解しようとしてもできるものではない。私たちはただそれを聞き、承認して、受け入れるだけである。

 

 2節に「すると、大きな地震が起こった」とある。マグダラのマリヤたちは、誰が墓の石をのけてくれるだろうかと案じながら、イエスの遺体に香料を塗るために墓の所へ来たのだった。その時、石は地震によって転がされた。神は信じる者に対して、天を動かし、地を震わせて道を備えてくださるということをこのところから知ることができるだろう。私たちにはもちろん天を動かすことも地を震わせることもできない。しかし神は、信仰生活をしていく上で妨げとなる石を取り去ってくださるのである。私たちは、何かをしようと思うことがあるが、あの石があるからできない、あの石が邪魔だとか言うことが多い。しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。私たちは人間の限界ある中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはいけない。それは何事も神に信頼し、神にゆだねて、神に期待して、行うということである。


 10節に「ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう」とある。女性たちに語られた主イエスの言葉である。イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、弟子たちにとって故郷である。だからガリラヤに帰れというべきではないか。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。それはイエスの復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけであるということではないか。パウロが第二コリント517で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」という世界であり、人生なのだ。


 そしてガリラヤに行った弟子たちは、そこで待っていて下さった主イエスにお会いする。1617節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた」とある。よみがえられた主イエスにお会いしながら、主イエスを礼拝しながら、弟子たちの中に疑いがあったのだ。福音書はそれを隠さず書く。本当のことだから。ウソは書かない。


その疑いを抱いた者たちはどうなったのか。復活された主イエスは彼らを排除されない。むしろその弟子たちに主イエスは近づかれるのだ。およそすべての福音書の記述によれば、よみがえられた主イエスに弟子たちの方から近づいた記事はない。すべて主イエスの方から近づいてくださるのだ。当惑する弟子たち、疑っている弟子たちに、主が近づいて声をかけてくださるのだ。そしてご自身の復活の事実を明らかにしてくださる。このようにして確かな復活の信仰に根ざす教会の歴史が始まった。キリストの教会は、この主イエスの方から近づいてこられることの出来事を宣べ伝えてきた。私たちのところにも主が近づいて来て、疑いを取り去ってくださったのである。


 では、私たちにとってガリラヤとはどこか、ガリラヤへ行くとはどういうことか。それは、私たちが復活の主に出会い、礼拝する場である。そして、その礼拝の場からすべての民へと遣わされていくのである。今年度の標語を「礼拝 -集中と拡散-」とした。そのことである。私たちはこの復活の主によって、集められ、遣わされるのである。そして復活された主は、いつも私たちと共にいてくださるのであるから、恐れず、喜んで主を証していこう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「そこで私に会う」 マタイによる福音書28章1~10節

 

 主イエスが十字架に息絶えられた時、すべては終わったかのように思われた。まさに暗黒が世を覆。すべてを捨てて従った弟子たちにとって

 

は、前途に不安のみがつのる絶望の暗闇であったに違いない。しかし、暗黒

 

 

を引き裂くように朝の光が射し込む時、すべてが変えられるように、週の初

 

めの朝早く墓に急いだ女性たちに、「恐れることはない。十字架につけられ

 

たイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて

 

言われていたとおり、復活なさったのだ」(5-6)という言葉が告げられる。

 

新しい時が始まったのだ。これが復活の出来事。復活の出来事は天使によっ

 

て告げられた。それは神からの宣言であることを表している。だから、私た

 

ち人間がその出来事を証明したり理解しようとしてもできるものではない。

 

私たちはただそれを聞き、承認して、受け入れるだけである。

 

 2節に「すると、大きな地震が起こった」とある。マグダラのマリヤたちは、誰が墓の石をのけてくれるだろうかと案じながら、イエスの遺体に香料を塗るために墓の所へ来たのだった。その時、石は地震によって転がされた。神は信じる者に対して、天を動かし、地を震わせて道を備えてくださるということをこのところから知ることができるだろう。私たちにはもちろん天を動かすことも地を震わせることもできない。しかし神は、信仰生活をしていく上で妨げとなる石を取り去ってくださるのである。私たちは、何かをしようと思うことがあるが、あの石があるからできない、あの石が邪魔だとか言うことが多い。しかし、神がおられる世界なら、心配することはない。私たちは人間の限界ある中で物事を考えようとするが、私たちの信仰は、神の支配される世界の中でなされることであることを忘れてはいけない。それは何事も神に信頼し、神にゆだねて、神に期待して、行うということである。

 

 10節に「ガリラヤに行け、そこで私に会えるであろう」とある。女性たちに語られた主イエスの言葉である。イエスは弟子たちにガリラヤに行けと言われた。ガリラヤは、弟子たちにとって故郷である。だからガリラヤに帰れというべきではないか。それをなぜ「帰れ」と言わずに「行け」と言われたのか。それはイエスの復活に出会い、新しく使命を与えられた者には、もはや帰る世界はなく、「行く」世界だけであるということではないか。パウロが第二コリント517で「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた。」という世界であり、人生なのだ。

 

 そしてガリラヤに行った弟子たちは、そこで待っていて下さった主イエスにお会いする。1617節に「イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた。イエスは、近寄って来て言われた」とある。よみがえられた主イエスにお会いしながら、主イエスを礼拝しながら、弟子たちの中に疑いがあったのだ。福音書はそれを隠さず書く。本当のことだから。ウソは書かない。

 

その疑いを抱いた者たちはどうなったのか。復活された主イエスは彼らを排除されない。むしろその弟子たちに主イエスは近づかれるのだ。およそすべての福音書の記述によれば、よみがえられた主イエスに弟子たちの方から近づいた記事はない。すべて主イエスの方から近づいてくださるのだ。当惑する弟子たち、疑っている弟子たちに、主が近づいて声をかけてくださるのだ。そしてご自身の復活の事実を明らかにしてくださる。このようにして確かな復活の信仰に根ざす教会の歴史が始まった。キリストの教会は、この主イエスの方から近づいてこられることの出来事を宣べ伝えてきた。私たちのところにも主が近づいて来て、疑いを取り去ってくださったのである。

 

 では、私たちにとってガリラヤとはどこか、ガリラヤへ行くとはどういうことか。それは、私たちが復活の主に出会い、礼拝する場である。そして、その礼拝の場からすべての民へと遣わされていくのである。今年度の標語を「礼拝 -集中と拡散-」とした。そのことである。私たちはこの復活の主によって、集められ、遣わされるのである。そして復活された主は、いつも私たちと共にいてくださるのであるから、恐れず、喜んで主を証していこう。