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教会は祈りの共同体

 

2020年3月1日 主日礼拝宣教

 

「教会は祈りの共同体」 テサロニケの信徒への手紙一 1章2-3節

 

 今日は受難節(レント)の第1主日礼拝。受難節(レント)は先週の水曜日から始まっている。今年のイースターの日は412日。イースターの日は毎年変わる。理由はイースターの日は、春分後の最初の満月直後の日曜日と定められているから。そのイースターの日からさかのぼって46日前が受難節(レント)の始まりとなる。その日は先週の水曜日だったが、「灰の水曜日」と呼ばれている。それは中世のカトリック教会で、この日に主の受難を覚えて、頭に灰をかぶったことから名付けられたから。そしてこの日から主の十字架の苦しみを覚え、祈る受難節に入る。

 

受難節(レント)は、神の御声を聴く時でもある。主の受難と十字架を覚えて祈るということは、否応なしに、キリスト者としてどのように生きたらよいのか、神の御心を聴く時、知る時となる。それには、詩篇4611「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(口語訳)との姿勢が大切。あなたが神であることは知っている。今更、静かにしなくてもと思うかもしれないが、本当に神の御心、御力を知った上で、私たちは主に喜ばれる信仰生活を送っているだろうか。案外、私たちは神の前に静まることなく、自分の思いで、いたずらに動き回ってはいないか。

 

 忙しくしていないと不安な人がいる。「忙」という漢字は、心を亡うと書く。確かに、人は忙しい時、心を失い、静かに聴く忍耐力がなくなる。だからか、すぐに人を非難したり、裁いたりすることが多くなる。また、神の言葉の中に、神の恵みを汲み取れない。困った忙しさだ。霊的に無能な忙しさ。神の臨在に気がつかない危険な忙しさである。

 

 レントは、そのような霊的な危険な忙しさの生活パターンから、自己を解放する時である。自らの力を捨て、静かに神と親しく交わることによって、神から新たな力を頂くことができる。そういう意味で信仰復興の時でもある。充実したレントの期間となるように、悔い改めと感謝の祈りを献げ、聖書に親しむ時としたいものだ。そして私たちは、イエス・キリストの福音が告げ知らせる神の慈しみと赦しとを想い起こし、与えられている信仰がさらに新しくされて、復活の朝(4月12日)を迎えたいと思う。

 

さて、祈りは一面においてはまことに孤独なもの。祈ることによって初めて一人、神の御前に出るということを知る。しかし他方、祈りはただ一人祈る時にも他者を思い起こさざるを得ない。パウロは、祈りにおいて、離れているテサロニケの教会の人々を思い起こしている。

 

 パウロはその祈りの中で、テサロニケの信徒が偶像から離れ、生ける真実の神に仕えるようになった、その信仰と模範(178)に対して神に感謝している(12)。そのことをパウロはここで「信仰の働き」「愛の労苦」「望みの忍耐」という言葉で語っている。これらの言葉は、コリント人への第一の手紙13章にある、信仰と希望と愛という、いつまでも存続する霊の賜物についての言葉を思い出させる。

 

 しかも自分にそのような賜物が与えられていてうれしいというのではなく、イエス・キリストの神を父と呼ぶことができる教会の仲間たちに、この大いなる賜物が与えられている現実を「心に留めている」と書いている。テサロニケの教会の人々の暮らしぶりに、信仰によって彼らが働いている姿を見ている。また、愛の労苦に耐えることができている姿を見、望みに根ざした忍耐の歩みが与えられているのを見ていた。信仰も希望も愛も、それが単なるお題目ではなくて、教会の仲間たちの生活ににじみ出てきているのを知るのである。祈りは、このようにまず何よりも信仰の仲間たちを思い起こす場所であった。祈りは感謝から始まるというが、その感謝の糧として、このように他者がくっきりと姿を現してくるのである。

 

 このことだけですでに、祈りが一人では成り立たないということ、教会の仲間があってこそ成り立つものであることがわかる。そして、そのように思い起こす人々のために祈るのである。しかもそれだけではない。この手紙の終わりに近いところでは、パウロは「兄弟たちよ、私たちのためにも、祈って欲しい」(525)と書いている。パウロは求めている。私のためにも祈って欲しい。自分も教会の仲間のために祈る。教会も自分のために祈って欲しい。パウロはよくこうした求めを書いている。教会の祈りの支えなくしては生きていかれないということをよく知っていたのである。

 

 もちろん、自分のための祈りを求めるだけではない。自分のために祈ってほしいという願いは、自分も仲間のために祈り続けることとひとつである。表裏一体。祈り合う。教会はそのようにして形作られる祈りの交わり、祈りの共同体。その意味では、私一人でする祈りが孤独であるということはない。自分のためだけに祈るような祈りもない。初めから他者を思い起こさないわけにはいかない。そこでは、初めにまず自分のために祈り、心に余裕があったら他者のために祈るということにはならない。自分のために祈ることと、他者のために祈ることと簡単に分けることは出来ないのだ。自分が他者の祈りの中に包み込まれるように、自分もまた他者を包み込むような祈りに生きるのである。祈りのネットワークに入れられ生かされているとでも言おうか。ここに祈る者の知るさいわいがある。教会に大勢集まっている時の祈りだけではない。私の一人の祈りが、とりなしの祈りであることは当然である。そのように私たちの祈りが、日ごとに少しずつでも広がることが出来ればどんなによいことかと思わされるのである。