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み国を来たらせたまえ

 

2020年2月9日 逗子第一教会 主日礼拝宣教

 

 「み国を来たらせたまえ」 マタイによる福音書6章9-13節

 

 「み国」という言葉は、聖書の他の箇所では「神の国」とも表現されている。神の国とは、「神の支配」という意味。神が生きて支配されているところということだ。だから、「み国が来ますように」というのは、神が生きて支配しておられる場所が完全にこの地上に来ますようにと祈っているのだ。では何をもって神は支配しているのか。それは「神は愛である」(第一ヨハネ416)とあるように神の愛をもって支配されているのだ。私たちはその愛の支配に中に生かされているのである。

 

 さて、主イエスが福音宣教を始められた時の第一声は、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ115)という言葉であった。主イエスがこの地上に来られ、十字架にかかり、私たちの罪を解決してくださったのは、私たちが救われて、もう一度神の国の建設という使命を取り戻すためであった。

 

 クリスチャンになるとは、天国への片道切符を手に入れて、後はそれを落とさないように生きるということではない。私たちがクリスチャンになったのは、「み国を来たらせたまえ」と祈りながら、自分の人生は「自分の国」の実現のために生きるのではなく、神の国の実現のために生きるのだと、私たちが救われた目的を想い起し、その主の救いの業、愛の業に応答して生きるためなのである。

 

「み国を来たらせたまえ」という祈りは、神が神の国を建てようと願っておられることを信じ、そのために自分は何ができるだろうかと考えながら、その働きへと励むことである。それはそれぞれ自分が置かれている場所で神の国を建設することである。誰もが献身して牧師になるということではない。職場で学校で家庭で地域で愛の業に励むこと、証しすること。直接伝道をするというよりも、クリスチャンとして生きる魅力を伝えながら生きることと言ったらいいだろうか。あのような生き方をしてみたい、あのような働きをしてみたいと思ってもらえるような生き方、働き方と言っていいだろう。それこそ証である。そのようにして生きるキリスト者の生き方を通して、神の国は建設され、「み国が来ますように」という祈りは実現していくのではないだろうか。

 

では、神の国の建設の中心にあることは、なんだろうか。それは神の言葉を聞くことだ。「み国が来ますように」と祈るときに、中心に置いておくべきことは聖書の言葉である。聖書の言葉によって、私たちの祈りの言葉は整えられ、神の国の有り様をふさわしく求めていくことができるのだ。むしろ聖書の言葉から離れていくときに、私たちは神の国を求めながらも、いつの間にか、「自分の国」「自分たちの国」の繁栄を求めていくことが、祈りの中でも起こり得る。

 

主イエスが教えてくださった主の祈りが教えるのは、聖書において啓示された神への祈り。そして、聖書こそ唯一の祈りの道筋。私たちの祈りの側に唯一置いておくべきものがあるとすれば、それは聖書である。聖書には主の祈りのほかに、多くの祈りの言葉が記されている。アブラハムの祈り、ダビデの祈り、パウロの祈りなどたくさんある。主イエスが十字架の上で祈られた「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ2746)とは、詩編の221節の引用である。これは、普段主イエスがどれほど詩編の言葉を大切にし、祈っておられたのかということを意味している。

ボンヘッファーという、ナチスドイツを相手に闘い抜いたドイツの神学者は、ある本の中で「もし悪魔が彼の信仰を無理にもぎ離そうとするときには、彼はこの聖書を読み祈ることに逃れこむ必要がある。……もし祈ることができなくなるような状態が襲ってきたら、聖書を読んで思い巡らすことをもって始めなければならない」と語っている。もし祈れなくなったときは、まず聖書に行けと語るのである。

 

そして、私たちが聖書に食らいついていくとき、今度は聖書が、私たちを祈りに向かわせていくのである。聖書と祈り、セットで毎日の生活の中に取り込んでいこう。