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すべてのものを良しとされた神

 

2020年1月12日 主日礼拝宣教

 

「すべてのものを良しとされた神」マルコによる福音書10章13-16節
 キリスト教は「愛の宗教」であるとよく言われる。では、キリスト教の「愛」とは何か。それは「神の愛」。それはどんな愛なのか?まず、「神の愛」とは、愛の対象はすべての人であること。そして無条件で一方的で、無限、永遠であるもの。それは神の本質そのものであり、神とはそういうお方であるということである。「神は愛なり」である(第一ヨハネ416)。そのことを聖書は最初から宣言して、私たちに示している。創世記の最初の天地創造のところに、「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。神は光を見て、良しとされた。」とある。「良しとされた」。この言葉は繰り返し語られ、31節で「神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった」と締めくくる。神はすべてのものを良しとされた。これが究極の愛。愛の表現である。
 卑近な例で話そう。赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すり、あやして言う。「おお、よし、よし」。優しい、なんと愛情のこもった言葉だろうか。人が生きるうえでの原点となる、尊い言葉だと思う。この「よし、よし」はもちろん「良い」という意味だから、母親は「おお、良い、良い」と言っているわけで、この時、赤ちゃんは「良い存在」として全肯定されている。先ほどの天地創造の時、神が宣言された「よし」と同じである。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」とか「眠い」とか、理由があって泣いているのだから、ちっとも「良く」ないのだけれど、母親はにっこり笑って、「おお、よしよし。すぐに良くなる、すべて良くなる。ほら、お母さんはここにいるよ、今良くしてあげるからね。何も心配しなくてもいいのよ。おお、よし、よし。おまえは良い子だ。良い子だね」と言葉がけしながら対応する。この言葉がけにはもう一つの思いが込められているだろう。それは全面的に存在を受け入れているということ。わかりやすく言うと「今そこに生きていること」自体が「よし」とされていること。「いいよ、いいよ」ということだ。
 私たち大人はそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きているが、誰もが赤ちゃんの時にそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して今日まで生きてこられたのではないか。生きる力を与えられてきたのではないか。「おお、よし、よし」はその人の最も深いところで、いつまでも響き続けているのである。

 

 その意味では、生まれて最初の「よし、よし」は、生きる上での原点ともいえるのではないか。何しろ生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖である。それまでの母体内での天国から突然放り出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で究極の泣き声を上げる。「産声」である。この世で最初の悲鳴である。ところが、それを見守る大人たちは、なんとニコニコ笑っているではないか。そして母親はわが子を抱き上げて、微笑んで語りかける。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉、「おお、よし、よし」。
 今日の聖書箇所もそうである。弟子たちは幼子の存在を否定的に見ている。受け入れていない。だから、叱ったのだ。「女、子どもの来るところではない」という差別と偏見。しかし、主イエスは「神の国はこのような者たちのものである」と肯定的に受け入れておられる。主イエスは自分の身近に呼び寄せて言われる。「このような者こそ、神の国に入ること」ができると言われ、子どもを抱き上げ、祝福される。このように私たちは神から肯定され、「よし」とされ、祝福されたものとして生かされているのである。このことは何も子どもだけのことではない。女、子どもをはじめ、罪人、障害や重い病にある人、奴隷、異邦人など、いわゆる社会で小さくされた者、弱くされた者、周辺に追いやられた者などに対して、主イエスは正面から向き合い、教え、宣べ伝え、癒され、共に歩まれたのだ。

 

存在の孤独に、生きていることの孤独に胸が締め付けられるような夜は、親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみよう。きっとわが子に微笑んで呼びかける人生最初の「おお、よし、よし」が聞こえてくるだろう。そして、その言葉の背後に、すべてのものに微笑んで呼びかける、宇宙最初の神の「よし、よし」も聞こえてくるだろう。そして、主イエスが「子どもたちを抱き上げ、手を置いて祝福された」その祝福を私たちにも今日、同じように招いて祝福してくださる主イエスの声が聞こえてくるだろう。そこに私たちは生きる力を感じ、喜びがわいてくる。それが神の愛のすごいところ、すばらしいところである。