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恐れからの解放

 

2019年12月22日 クリスマス礼拝宣教

 

「恐れからの解放」 ルカによる福音書1章39-56節

 

 天使から受胎告知を受けたマリアはどんなに怖くて不安だったことだろう。そのマリアが46節から始まる主を賛美するマリアへと変わっていったのはなぜか?その間にマリアがエリサベトを訪問する話がある。そこがカギとなる。

 

受胎告知を受けたマリアは妊娠初期と思われる体の危険をかえりみず、大急ぎで山里のエリサベトのもとへ行く(39)。マリアをそのような行動に駆り立てたものは何か。一つは愛。マリアは落ち着いていない。急いでいる。36節に天使から「あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている」と知らされる。マリアは放っておけなかった。長い間「不妊の女」とさげすまれてきたエリサベトにお祝いの言葉を伝えたかったのだ。愛は落ち着くことをゆるさない。

 

 もう一つの理由は不安。私たちは不安の中に落ち着いてじっとしていられない。38節で「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように」と言ったが、そこに不安な気持ちがあっただろうと思う。喜びよりも不安。マリアの口から讃美の言葉が出てくるのは46節から。マリアのエリサベトに対する挨拶には、自分の不安を正直に打ち明ける言葉が含まれていたと思う。その不安に対してエリサベトの語ったことは、マリアが体験するのは主の祝福の出来事なのだということ。不安でなかなか一歩を踏み出せない時に、一つの言葉にポンと肩を押されて、前に出られることがある。マリアの口から讃美の言葉があふれ出てくる。

 

 讃美は主の恵みへの応答であり、祈りであり、信仰告白である。マリアの讃美で主の恵みである「偉大なこと」(49)は複数形になっている。私たちは主の恵みをいくつ知っているだろうか。恵みはすぐに恵みとわからず、マリアのように戸惑い、不安になるものかもしれない。しかし、主の恵みと分かったなら、心からの讃美をしたくなる。主の恵みは、すでに起こったものもあり、これから起こるものもある。私たちはこれからの事についても確信して、讃美をもって応答できるのである。

 

 「わたしの魂は主をあがめ、私の霊は救い主である神を喜びたたえます。身分の低い、この主のはしためにも、目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も、わたしを幸いな者と言うでしょう」(ルカ147-48)。「目を留め」、文語訳では「そのはしための卑しきをも顧みたまえばなり」である。神がこちらを向き、目を留めてくださるなどとは思ってもみなかったのに、こちらへ振り返ってくださった。思いがけない喜びがあふれる。しかも、この後マリアが歌う歌は、堂々たるもの。ルターは、「身分の低い」という言葉を「無きにひとしい」とさえ訳している。顧みるに値するものは何もなかったのに、そのような者が神のまなざしの中に立ったとき、揺るぐことなく、畏れることなく、讃美に生きたのだ。

 

 マリアは、「身分の低い、この主のはしためにも」と言う。そのマリアに神は「目を留めてくださった」。さりげない告白のようであるが、ここには思いがけない恵みを発見した者の正直な告白がある。恵みは数えるものだといわれるが、過去を振り返ってみなければ分からない。私たちには、恵みを受ける資格も条件もあらかじめ持ち合わせていない。私たちの人生に神が働いてくださった事実があるのみ。私に働いてくださった神は、私が理解や納得するように働いてくださるとは限らない。よくよく人生を振り返ってみると、その歩みのところどころ、方々に思いを越えた神の働きを見る。それこそ恵みの事実がそこにあるとしか言えない。マリアは、わが身に起こった神の働きの事実をそのまま、人々に伝えたのだ。彼女がいかに神を信じたかではなく、起こった事実を語っているだけなのだ。それこそ生の信仰告白だということができるだろう。

 

 クリスマスは、神の愛の出来事を共に感謝し、喜び、讃美すること。この一年の間、わが身に起こった数々の神の愛の出来事、恵みを数えつつ、感謝と喜びと讃美を持ってクリスマスを迎えよう。