· 

信仰は神との取引か?

 

2019年12月15日逗子第一教会アドベント第3主日礼拝宣教

 

「信仰は神との取引か?」 ルカによる福音書17章11-19節
 私たちは、意識するとしないとに関わらず、往々にして、「その宗教がどれだけ役に立つか」、「礼拝がどれだけ役に立つか」という基準によって判断したり選択したりすることがある。すなわち「神と取引し、自分のニーズに応じて教会や礼拝に関わる」ような意識や行動が、知らず知らずのうちに侵入してきている。それを聖書ではサタンの働きだと言う。だからこそ、私たちはそうした危険に取り囲まれながら、言い換えるならば、常にサタンの誘惑にさらされながら、信仰生活や教会生活を送っているということを常に意識し続けていなければならなだろう。
 礼拝は人間と神が「取り引き」する場ではなく、教会もそのためのお店ではない。聖書は、あらゆる私たちの人間的な思いに先立って、神ご自身が私たちに本当に必要なものをご存知であると告げている。「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。(中略)あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである」(マタイ625以下)。
 私たちを創造し、私たちを恵み、私たちを見守ってくださる神は、全て必要なものを私たちに与えてくださるお方である。私たちが必要とするものを全て喜んで与えてくださる方に対して、どうして「取り引き」する必要があるだろうか。礼拝とは、何かを獲得するために人々が集まる場ではなく、私たちに本当に必要なものがすでに与えられていることを知って感謝する人々の集いなのである。
 このことを今日与えられた聖書の箇所、ルカ福音書17章11節以下に記されている「重い皮膚病を患っている十人の人の癒し」から教えられたいと思う。この話は、当時のユダヤ社会で大変嫌悪された「重い皮膚病」にかかっていた十人の人が、主エスによって癒され、それぞれ社会復帰を遂げることができたことを語っている。十人は全員が健康になった。しかし、聖書によれば、この癒された十人のうちで主イエスのもとに戻ってきて感謝し、神を賛美した人はたった一人しかいなかったというのだ。宗教改革者ルターはこの物語について、礼拝とは「癒されるための条件」ではなく、「癒された者の感謝の表現」なのだと説いている。
 特にここで注目したいのは、十人すべてが癒されたという事実である。感謝した者もしなかった者も、全員その願い通りに癒されたのである。それにもかかわらず、神をほめたたえるために戻ってきたのは、たった一人だったというのだ。ここには、神と人間との関係を理解する上で、また礼拝とは何かということを理解する上で、とても重要なカギがあるように思う。キリスト教は、旧約聖書以来の伝統に沿って、次のことを主張する。「すべての人間は神の恵みによって創造され、すべての人間は神の恵みの中に置かれています」。しかし、すべての人間がこの恵みに気づいているわけではない。この恵みに気づいた者は感謝する。しかし、気づかない者は感謝しない。気づいた者は礼拝する。気づかない者は礼拝しない。
 私たちの時代は礼拝しない人間の時代である、と言われる。人間が自分の力に頼ることしか知らず、「神の愛」を信じることのできない時代であるとも言われる。「自分に役に立つか立たないか」を基準にしてすべてを決定し、お互いがお互いを利用する「利己主義の分かち合い」によって生きているような時代である。しかし、そのような世界の中では、人間は本当に人間らしく、安心して生きていくことは出来ない。
 キリスト者が礼拝に参加するのは、神から何かを獲得したり、神と取り引きしたりするためではない。私たちが礼拝に参加するのは、神がすでに私たちを愛してくださっていることに気づき、それに感謝するためである。そしてさらに言えば、このような気づきと感謝の中で礼拝することを通して、私たちはこの世に向けて、神に感謝する生き方があること、人間は神の恵みによって生きるということを証しする使命が与えられている。いわゆる宣教の働きである。宣教とは狭い意味での伝道だけではない。マタイによる福音書423節に「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」とあるように、主イエスは福音を宣べ伝えるだけではなく、「教え」いわゆる広い意味での教育、そして「癒し」病気だけではなく、広い意味での仕える奉仕をされた。中村哲医師の働きもその証の一つだと言っていいと思う。

 

私たちの礼拝とは、そのような広がりの中で行われる「神の民」の喜びの告白であり、同時に宣教の業であることを忘れないようにしたいと思う。