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御名があがめられますように

 

2019年11月17日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「御名があがめられますように」マタイによる福音書6章9-13節
 主の祈りが「天にまします我らの父よ」と神さまへの呼びかけに始まり、次に祈るようにと主イエスから教えられたのは、「御名をあがめさせ給え」という祈りである。ところが
人は時に、神の名前よりも自分の名前があがめられるようにと願うものである。隣にいる人よりも、自分の名前があがめられるようにと願いやすいもの。そして、自分よりも有名になったり、出世したりするのを見ると、悔しい思いに駆られ、嫉妬の感情に巻き込まれてしまうことがある。なんで自分が評価されないんだろうなどとつぶやく。私たちは生きている中で、自分の名声へのこだわりや、自分の働きの成果がふさわしく報われることに固執することから抜け出すことが難しい。

 

 しかし、「御名をあがめさせたまえ」という祈りは、この思いから私たちを解放してくれる。「あがめる」という言葉には、「大いなるものにする」という意味がある。つまりこの祈りには、「神さまこそが大いなるものとなりますように」ということを祈っているのだ。この祈りを祈るということは、翻って私たちは「小さくなるように」と祈っていることとなる。「私たちは大きなものにはなりません」という祈りでもある。

 

 「父」と呼ばれる神さまが大いなるものとなってくださるとき、私たち自身がどれだけ小さく見えようとも、平気になる。むしろ自分よりもはるかに清く、すべてを見渡し、すべてをご存知の神さまが大いなるものになってくださることに、どれだけ安心と平安が得られることか。仮に誰からも評価されなくても、神さまはすべてをご存知だから、平気、安心である。

 

 そして、「父なる神」の大いなる力強い姿を見れば見るほど、私たちは誇らしい気持ちになっていく。その時、私たちは「自分の名前」の大きさに一喜一憂することなく、だれかを妬ましく思うことからも解放されていく。

 

 祈りという行為は、時に自分の願いの実現を祈りやすいもの。自分のことをもちろん祈ってもいいのだが、しかし、何よりもまず「御名があがめられますように」と祈ることで、祈りを自己実現の道具にすることから解放されていく。いわゆるご利益信仰から解放されていく。

 

 「御名があがめられますように」と祈る人は、自分がすぐに高慢になってしまう弱さを持っていることを自覚している人。そして絶えず神さまの前に、人の前に、謙虚であろうと願う人なのである。この祈りを通して、私たちも謙虚に生きる祈りの人となりたいと思う。

 

 先ほど話した「あがめる」という言葉は「大いなるものにする」という意味だけでなく、「ほめたたえる」という意味もある。「賛美する」などの喜びの感情を伴う言葉である。

 

 ある教理問答集の第一問に「人が生きる目的は何ですか?」という質問がある。その答えは、「神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶ」と記されている(ウェストミンスター小教理問答問一)。この「永遠に神を喜ぶ」とはEnjoyするという意味。「永遠に神さまを楽しんでいられるように」との意味がここにある。神を喜び、楽しむことこそ、人の生きる目的だと表現されている。

 

 現代は、生きる意味を見失った状態にあるようにみえる。自ら生きることをやめてしまいたくなるようなことがある。自分の価値がどこにあるのかわからずに、仕事や稼いでくるお金で自分の価値を見出そうとしたり、人と比べて、人からうらやましがられるような人生を送ることで、自分の人生の喜びを得たいと思ったりする。しかし、主の祈りは、あなたが造られたのは、生まれてきたのは神さまの「御名があがめられるため」であると教えようとしている。

 

 もし私たちの思いが暗くなり、何もできないと自分の人生を考えてしまったとしても、「御名があがめられるように」と祈る時、神さまは「あなたが生きる意味、その目的は達成されている」と言ってくださる。もし長い間、病床にあったとしても、「自分は神さまのお役にも、人の役にも立てない」と思うことがあったとしても、「神の御名があがめられますように」と祈る時、「私は、その祈りをなすために、あなたを造ったのだよ」と、神さまはあなたの祈りの奉仕を喜んで下さる。

 

 そして、「御名があがめられる」ことを喜び、神さまとの祈りの交わりを喜び、楽しんでいるあなたの姿を見て、神さまが「あなたを造って本当に良かった」と喜んでおられるのである。

 

 今朝も、「御名があがめられますように」という祈りをもって、私たちが生きている意味を取り戻すことができますように。