· 

痛みを通して神の愛を知る

 

2019年11月3日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「痛みを通して神の愛を知る」 ホセア書3章1-5節

 

 ホセアは「神の愛」を語った預言者だと言われる。それは彼が自らの結婚生活の破れを通して、神の愛を知らされていったからだ。だから、彼は自分の結婚生活の破れを語りながら、異教の神バアル崇拝に誘惑されたイスラエルの民とヤハウェとの関係の破れを象徴的に示す方法で語っていく。このことを頭において、ホセア書を読むとよく理解できると思う。

 

さて、ホセア書の1章の冒頭の言葉は、「主がホセアに語られたことの初め。主はホセアに言われた。『行け、淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。この国は主から離れ、淫行にふけっているからだ。』」から始まっている。主はホセアに、「淫行の女をめとり/淫行による子らを受け入れよ。」と命じる。ホセアは主の命令に従い、ゴメルと結婚する。そして三人の子どもが産まれるが、彼らはホセアの実の子ではなかったかもしれない。ゴメルは結婚後も夫以外の男性と関係をもっていたようだ。彼の家庭生活は不幸であり、妻ゴメルの裏切りに苦しめられた。

 

 ついにゴメルは家を飛び出し、バアル神殿に行ってしまう。ホセアもまた憤りをもって離婚を宣言する。その後、ゴメルは奴隷に身を落とす。しかし神はなお、ゴメルを受け入れるようホセアに迫られるのである。それが、今日の聖書箇所の31節のところである。 

 

 1節の「再び」は「行け」と「愛せよ」にかけて、「もう一度行って、(もう一度)愛せよ」と訳すこともできる。神はホセアに「もう一度愛せよ」とあえて命じられるのである。そのような愛はおよそ人間的な日常の愛ではない。神がイスラエルを愛されることがなければ不可能である。そして事実、神の愛は直ちに姦淫を日常としている者へと向かうのである。1節後半はそのことを言っている。「イスラエルの人々が他の神々に顔を向け、その干しぶどうの菓子を愛しても、主がなお彼らを愛されるように。」

 

 神はゴメルの罪を見つめると同時に、その苦しみを受けとめ、彼女を愛しておられたに違いない。同じように神は、イスラエルの罪を見据えながら、なおイスラエルを愛し通されるのである。こうしてホセアは自らの家庭生活の痛みを通して主の痛みを思い知らされ、妻と向かい合おうとする取り組みの中で、主のはかり知れない愛を知る者となっていく。

 

 そこで、ホセアは当時の奴隷一人に相応するお金を払って彼女を請けもどす。そして請けもどしたあと、淫行からきっぱりと離れることを彼女に求めた。4節はそのことをイスラエルについて言っている。「王も高官も」というのは政治組織のこと。「聖なる柱」はカナンの聖所のかたわらにアシラ像とともに立てられた石の柱で、バアルの標識。エフォドは、祭司が占いの時に額あるいは胸につける板、テラフィムは家の守り神である。政治組織や犠牲や占いなしに過ごすとは、荒れ野の生活に戻ることである。清めの期間を過ごすのである。そして、その後「帰る」のである、主に帰るのである。「求める」「近づく」とともに、高慢を捨てて神に帰り、神の愛を知るに至るのである。最後に「終わりの日に、主とその恵みに畏れをもって」とある。神の約束の地であるカナンでの生活が終末的な信仰と畏れに生きるものでなければならないとホセアは力強く述べている。

 

 ホセアの生きた時代、北イスラエルはクーデターが相次ぎ、目先の外交に右往左往する中で滅亡の一途をたどってゆく。人々が絶望に沈んでいくその中で、しかしホセアは明確な希望を語る。それはホセアが神の愛に出会ったからである。このメッセージの背後には、主の愛に出会うことによって破れた家庭生活の回復に取り組んだホセア自身の姿がある。そしてホセアは活ける水、神の愛によって、イスラエルという共同体が癒され、新しく作り替えられ、実を結ぶ希望を語る。それはまさにイエスの愛の教えの前触れであった。

 

 私たちの教会もこの現実の厳しい社会にあって、「喜んで彼らを愛する」(145)と言われる主の愛を受けとり、その愛を実らせる群れとして愛の業に励んでゆくものでありたいと願う。