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前へーキリスト信仰の姿勢

 

2019年10月27日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「前へ―キリスト信仰の姿勢」フィリピの信徒への手紙3章12~14節

 

スポーツは信仰生活とよく似ている。今日の聖書箇所でパウロは自らの信仰生活を「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」(14)と語り、スポーツ競技に信仰生活をなぞらえている。そして、パウロは、「なすべきことはただ一つ」、「後のものを忘れ、前のものに全身を向けつつ」(13)、「目標を目指してひたすら走る」と言っている。しかし、私たちはしばしば忘れている。ぐずぐずしたり、小さなことに拘泥して立ち止まったり、逆戻りしようとする。逃げようともする。しかし信仰の生活に「なすべきことはただ一つ」、「前へ」なのである。

 

 なぜ、「前へ」なのか。信仰生活とスポーツ競技とはこの一点で大きな類似点がある。それは、どちらにもゴールがあるということ。目標があり、そして終わりがある。そこを目指している。ゴールがなければ、どっちが前かは分からない。どちらに向いて走り出せばいいかわからない。しかしゴールがある。ゴールがあるので、そのゴールに規定された生き方がなされていく。パウロはそこで「賞を得る」(14)とも語っている。それは、「神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞」。「忠実な僕よくやった」という最後の神の国における賞である。これもスポーツ競技と類似している。

 

 スポーツにも一種の「終末論的な構造」があるといってよいかも知れない。終わりがあり、そこで審判がなされ、そしてはじめて最後に賞が与えられる。途中でどんなに状況や具合が悪く見えようと、問題なのはゴールである。そこでこの終わり、ゴールから規定され、ゴールに向かって、それ以前の走りを考えるわけである。またそのための訓練も生まれてくる。よくアスリートたちが言う「オリンピックのメダルを目指して、なすべきことを悔いなくやっていきたい」と。

 

 そこでもう一つ重大なのが、この「前へ」というあり方の眼のつけどころ、目の位置ではないか。「目標を目指して」だが、目標がマラソンの場合のように目の前に見えない場合もあるだろう。これについてはヘブライ人への手紙にこう記されている。「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」(122)。これが信仰生活の目の位置である。「目標を目指して」ということは、「信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」ということなのだ。イエスを見つめることが、目標を見つめること。それがまた「前へ」ということでもある。主イエスを見て、主イエスに向かっていくのが、信仰の歩み、それが前へ進むことなのである。

 

 今、主イエスがどう一歩前、数歩前を走っておられるか、これを知ることは聖書に従って、み言葉に示されて、決して不明瞭ではない。問題は、私たちの目が主イエスから離れること。脇目を振ったり、うつむいて下を見たり、振り返って後ろを見たりしてしまうことである。主イエスを見ないで、現実を見てしまうことである。主イエスではなく、あのロトの妻のように自分たちが出てきた元の町を見たり、ペテロのように、主イエスを見つめず、足元の嵐や荒波を見てしまうこと(マタイ14章)。「イエスを見つめながら」、これが信仰のいつもの姿勢ではないか。

 

 ヘブライ人への手紙はこの直後、簡潔に受難の主イエスを描いている。十字架の死を耐え忍んで、神の右に座しておられる主イエスである(122)。この主にじっと目を向けて、このイエスを見つめながらキリスト者は生きる。それが前進するキリスト者、前へと進む信仰者の姿勢である。

 

 他のものへと眼をそむけないこと。パウロは「後のものを忘れ」と言う。「後のもの」に目を向けない。確かに実際にはこれがなかなか出来ない。人間は、忘れようとすればするほど、かえって、それにこだわるようになる。目を向けまいとすればするほど、そっちに目が行くということもある。自分の失敗とか、果たせなかった責任とか、隣人の失敗とか欠陥とか、性格がどうとか、能力がどうとか、気になり出すと、頭から離れない。小さな些細なことが忘れられなくなったりする。教会のことでも、眼がうつむき、下向きになる。そして「前へ」を忘れてしまう。本当に重大な教会の使命が、主イエスの十字架と神の国の福音を伝えることであること、「福音の前進」に仕えることであることを忘れてしまう。 

 

それでは、どうしたら、後のことを忘れられるだろうか。ヘブライ人への手紙で言えば、「すべての重荷やからみつく罪をかなぐり捨てて」(121)となる。どうしたら「重荷」や「罪」を捨てられるか。なかなか捨てられないからこそ重荷であり、また罪であるわけだ。しかしそれは「かなぐり捨てなければ、走れない」。古代の競技は裸で走ったといわれる。余分のものを背負っていたり、身につけていては、走れないからだ。同じように、信仰生活において罪だけでない、信仰の馳せ場を走りにくくするものは、かなぐり捨てよというのである。これは、やはり「十字架の主をじっと見つめる」ことと関係がある。主を見つめることなしに、気を転じ、眼を転じ、重荷をかなぐり捨てることは出来ない。やはり、十字架にかかられた主イエス、この主が私たちに信仰を与えて下さり、また信仰を完成させて下さるのだ。この主を心の内でじっと見つめることだ。主を見つめることで、足元の嵐や荒波に目を奪われなくなるのである。「すべての重荷やからみつく罪」を「十字架の主イエス」にゆだねて、その足下に置く。「後のこと」を主に任せる。主に信頼すること。

 

「前のものに全身を向けつつ」「イエスを見つめて」信仰生活を最後まで走り続けようではないか。