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主の祈りに学ぶ

 

2019年10月20日 逗子第一教会 主日礼拝宣教 杉野省治

 

「主の祈りに学ぶ」ルカによる福音書11章1ー4節     

 

 主の祈りは、キリスト教の小さな学校と言われる。主の祈りを学ぶとき、私たちが祈りをささげる神さまがどのようなお方であるかを知ることができる。また、キリスト信仰が本来どのようなものなのかをやさしく教えてくれる。さらに、私たちの祈りが、自分勝手な祈りになってしまうことから守ってくれる。

 

 主の祈りは弟子たちがイエスさまに、「祈ることを教えてください」(ルカ福音書111)とお願いし、イエスさまから直接、教えていただいた祈りである。イエスさまの弟子たちも、基本的には旧約の時代から続いている自分たちの祈りの生活を持っていたはずだ。しかし、彼らはイエスさまの祈りを見た時に、自分たちが「祈り」だと教えられてきたものとは根本的に何かが違うのではないか、と考えざるを得なかったのではないだろうか。一人で静かなところで祈っておられるイエスさまの祈りの姿が、あまりにも自分たちの祈りの生活と違ったのだろう。だからこそイエスさまに、「祈りを教えてください」と願ったのだ。

 

 イエスさまは、まるで夢中になって、父なる神さまとの祈りの時間をいつも持っておられた。神であるならば、祈らずとも、言葉を交わさずとも、互いの思いや考えていることはわかるはずなのに、イエスさまは祈られる。それは、父なる神も子なるイエスも、互いに言葉をもって「話したい」と願っておられる神さまだからだ。これを神格的な交わり、三位一体の交わりの中にある神さまであるということが言えるのではないだろうか。

 

 この交わりが、私たち人間にも向けられ、神さまがわたしたちとも「話したい」と願っておられるのだ。創世記3章に神さまが人間とはじめて会話する場面がある。エデンの園でアダムとエバが禁断の木の実を食べて、神を恐れて隠れた場面で、神が「どこにいるのか」と呼ばれ、アダムが「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。」と答える場面。創世記127節に「神はご自分にかたどって人を創造された」とあるが、神さまは最初から私たちと「話したい」と願って「ご自分にかたどって人を創造された」のではないだろうか。

 

 さて、今私たちが祈る「主の祈り」は「天にまします」という言葉で始まる。これは同じ「主の祈り」について書かれたマタイ福音書69節に「天におられる私たちの父よ」から来たもの。この祈りの言葉から、私たちの信じている神さまは、「天」というところにおられるということがわかる。「天」という言葉は、私たちの目を上に向けさせる言葉である。「天」とは全体を見渡すのに最適な場所であり、神の視野を妨げるものは何もない。神こそ世界にその視野を持っておられるお方である。そして今、どこで何が起こって、どんな必要があるのかが見えるところにおられるのである。

 

 私たちがしばしば祈りについて持つ疑問は、「祈りは聞かれるのか?」というものだろう。その疑問は、私たちが自分の必要しか目に入っていない、考えていないところからくるのではないだろうか。しかし、「天にまします」と祈りつつ、天に場所を持っておられる神さまに目を上げる。その時、私の必要もご存知だが、すべての人の必要もご存知であることを想い起こさせられる。そうして、私の目にも、他の人の必要が目に入ってくる。この神さまがすべてを見渡せる場所で、私たちの最善を願い、祈りに応えようとしてくださっていることを信じることができる。だから、次に続く言葉が「私の父よ」ではなく「我らの父よ」と複数形になる。私だけの父ではない。「我らの」、すべての人にとっても父なのである。そのことを教えてくれる。そうすると、私たちの信仰生活はどうあるべきか、どのような姿勢で生きるべきかがおのずとわかるであろう。天、神を見上げて、我らである隣人を常に意識していく。それは神を愛し、隣人を愛することにつながっていく。

 

 今朝も、「天にまします我らの父よ」と祈ることで、今日という日も神は最善の選択をなしておられるのだと信じて、私たちも平安に一日を過ごすことができる。